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一月

少年プッシーフット






 三が日が過ぎたところで、気楽で身軽な七緒(ななお)は、どうにも正月気分が抜けきらない。何しろ、七緒は大学生になってしまったのだ。
 むろん、大学生が皆暇を持て余しているわけでもないし、それは七緒もわかっている。デザインしまくっていたり、研究しまくったりしている学生はごまんといるだろう。
 ただ、自身に限れば、正月はのんびりだらだら過ごせる時間なのだった。
「ねえ、ヒロちゃん」
 四つ年上の従姉(いとこ)()れてくれたミルクティーのカップをソーサーに戻して、七緒は溜息(ためいき)をつく。
 ティーセットは、七緒の母が彼女の誕生日にプレゼントしたボーンチャイナだ。やわらかい白が特徴的で、触り心地も色同様にやさしい。
 七緒が呼びかけた従姉は、リビングテーブルを挟んだ向かい側で、実にのんびり、品よく練り切りを食べていた。
 練り切りは鶴を模したかたちに整えられていて、なるほど確かに一月にふさわしい。でも、マリアージュの相手が紅茶だなんて、練り切りも紅茶も、お互い不幸な結婚のように思う。
 ――結婚、かあ。
 従姉の左手の薬指の指輪を見て、
 ――一応、まだ新婚、だよね?
 と、胸中で自分に確認した。
 この従姉、おっとりのんびりにこにこ、ものすごくおとなしそうな顔をしておきながら、学生結婚で周囲の度肝(どぎも)を抜いた。
 近年取り上げられるようになった年の差婚で、相手が既に社会人だった――
 ――わけではない。
 なんと、学年にしてひとつ上なだけ。おまけに、従姉からプロポーズしたという。
 高校一年生のときに。
 何がどうなったらそうなるのか、受ける相手の男もそうだが、よくもまあ双方の親が許したものだと思う。
 そこまで考えて、いやいやと七緒は内心で(かぶり)を振った。相手はどうだか知らないが、従姉の親なら想像はつく。
 好奇心と、それをはるかに上回る心配から、七緒は従姉に経緯を(たず)ねた。といっても、馴れ初めを聞く程度のものだ。そうそう首や口を突っ込んでいいことではない。
 従姉はいつもの朗らかな笑顔で、
 ――色々あってね。
 と、ぶった切った。何ひとつわからない。
 ――しあわせでいていただきたいなあと思って、お傍で見ていたいなあと思ったから、結婚を申し込んだの。
 うん、わからん。
 この突っ走りようは母親の血だよなぁなんて思いながら、七緒はミルクティーを飲む。菓子皿には、従姉お手製のフィナンシェが並んでいた。
「ヒロちゃんはさ、寝てるときにキスされたことある?」
 言って後悔した。やたら恥ずかしい。
 新婚であるところの従姉の(ひろむ)が、まるで初恋も知らない小さな女の子みたいにきょとんとしたからだ。
 新居とは言わないけれど、ここは確かに弘とその夫が暮らしている空間なのだ。その中でこんな質問をしたのが、ひどく恥ずかしかった。不躾(ぶしつけ)な気がする。
 一月初旬の晴れ空は爽快(そうかい)だ。レースのカーテン越しに、昼下がりの陽射しがはらはら(こぼ)れ落ちている。フローリングがやわく光っていた。
 ラグの上に(ひざ)(そろ)えて座っている弘が、こくんと首を傾げる。
「わからない」
 なんで?
 という七緒の怪訝(けげん)な表情を見て取って、弘はまた首を傾げた。
「寝てるときのことはわからないよ」
「あっ……」
 ――そうだよ! わかんないんだよ、当たり前じゃん!
 眠っているのだから、キスされたところでわかるわけもない。当然のことなのに、当然のこと過ぎて失念していた。
 要するに、七緒は現在その当然が(まか)り通っていない状況にある。
 気づかれたかなと、どきどき、否。
 ひやひやしながら弘を(うかが)う。
 彼女は変わらずにこにこしていた。
「もしかして、おやすみとか、おはようのことを言ってた? わたしが勘違いしてたならごめんね」
「いや、大丈夫……」
 何が大丈夫なのだか。何も大丈夫ではない。
 手が震えている気がして、七緒はテーブルにカップとソーサーを置いた。
「お、おやすみとかおはようのキスはするの?」
「うん。挨拶だから」
「す……、するんだ」
 ――あれが? あのひとがそんなことするの?
 自分で()いておいてなんだが、信じられない。
 弘の夫とは正月に会う程度だが、とてもそんなことをする人物には見えなかった。
 不機嫌でないことはわかるのだけれど、何を考えているのかいまいち判然としない顔で、無表情とは異なるが、人好きのする顔ではない。まったくない。どちらかといえば、やや冷たそうに見える。
 だから、彼とはじめて会ったとき、七緒はものすごく心配になった。まさか暴力は振るわないだろうが、このひとは本当に弘を大切にしてくれるのだろうかと思ったのだ。
 四つしか違わないとはいえ、小さい頃、七緒は弘によく面倒を見てもらい、遊んでもらった。断片的ではあれ覚えているのだから、よほど嬉しかったに違いない。そんな弘が結婚するというのだ。気になるのは当然だったし、大切にしてくれるひとでなければ困る。
 七緒の心配は、完全な杞憂(きゆう)に終わった。
 弘の夫は接してみると意外と穏やかで、淡々としてはいるが冷徹(れいてつ)ではない。
 美形なわけでもないのに、微笑の美しい男性だった。
 (まつげ)を伏せると(うれ)いを含む、繊細な輪郭(りんかく)の持ち主だった。
 弘を呼ぶ声があまりにもやさしかったから、七緒はあっさり納得してしまった。他人からは少々読み取りづらい表情だというだけで、彼は弘を大切にしている。恐らく、七緒が思っているよりも、ずっと。
 ――それにしたって、あんなしれっとした顔をして、おやすみとおはようのキス。
 意外としか表しようがない。もしかしたら、いってきますとただいまもしているかもしれない。
 さすがにそこまで訊いていいとは思えないので黙る。
 ――あれで結構甘えたがりだったりするのかな。
 弘がおとなしい顔をして大決断をしたように、ひとは見かけによらないものなのだ。
小鞠(こまり)ちゃんとムッシュウ・クレールだってなさるでしょう?」
「ああまあ、うんまあ。お父さん、パートナーにキスするのはマナーだっていう国で生まれ育ったわけだし……」
 特別な親愛がこめられているとはいえ、ただの挨拶なのだから、キスはセットであると同時に付録だ。「おはよう」で終わるか、「おはよう」のあとにキスがつくか、その違い。
 七緒も、幼い頃は夫婦がキスを交わすのは当然だと思っていた。日本では少数派なのだと知ったとき、じゃあどうやって愛情確認するんだよと思った記憶がある。
(ひろし)さんとみーちゃんってする?」
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