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 尋ねると、弘はどうかなあと考えはじめた。
「意識したことがないから……するにせよしないにせよ、母の気まぐれひとつだと思うよ」
「ああ……うん。なんとなくわかる」
 ドライというかなんというか、弘の母、(みやび)の愛情表現はあっさりしている。……と感じるのは、やはり自身の両親の身体的な距離が近いからだろうか。
 七緒に合わせて甘さを控えめにしてくれたフィナンシェを(つま)んだところで、
「ななちゃんは寝てるときに誰かにキスするの?」
 弘が笑顔で尋ねてきた。
 吹き出しそうになったのをぎりぎり寸でで押し止め、七緒は慌てて否定した。
「えっ、あ、あたしはしないよ!」
「? でも、寝てるときにキスしてるのは知ってるんだよね?」
「……そうだよね。そうなる……よね……」
 「キスされたことある?」と七緒が訊いたのだから、七緒はその行為を知っていることになる。寝ているときのことなどわかりようがないのだから、弘の勘違いはとても正しい。
 乱暴に髪を手櫛(てぐし)()く。耳が熱くなっていた。
 こんなことで赤面しないといけないなんて、哀しくなってくる。
 それもこれも、みんなあのマセガキのせいだ。
「いや、あのね、最近三波(みなみ)の友だちが遊びに来るの。いや、最近って言っても、去年からだから結構経つか」
「そうなんだ」
 弘が嬉しそうに微笑む。
「三波くんも、この春で小学校の六年生になるね」
「うんそう……」
 小学生。
 六年生。
 つまりまだ五年生。
 ――冗談でしょ。
 頭痛がしてくる。
 七緒はこめかみを()んだ。
 七緒の生理痛がとんでもなく重いことを知っている弘が、眉を心配に(くも)らせる。
「ななちゃん、頭痛いの? お薬が平気なら、合うものがあれば出すよ」
 弘が心底気遣わしげだから、なおさら居た堪れない。七緒の悩みはものすごく情けなく、ある意味ものすごく切迫(せっぱく)していた。
「うん、大丈夫。ただ、なんていうか、ああ、……あああもう……」
 頭を両側から挟み込む。むぎゅっ、と押し込み、ぐにぐに回した。
「なんていうかねぇ、すっごいマセガキがいるのよ」
「ませがき」
「そう! すっごいませてんの!」
 なんだか腹が立ってきた。
 弘は微笑をほっぺたに残したまま、ぽかんとしている。
「もうさあ、信じられない。好きだとか言ってくるのよ? 恋に(とし)の差は関係ないって、確かに言ったけどさぁあ」
 無責任に発言したわけではなかった。七緒は恋や愛に齢の差は関係ないと思っている。両親が一回り以上の齢の差があり、ついでに国際結婚だというのも影響しているのかもしれない。それこそ幼い頃から、小学校六年生のときは既に、七緒は芯から「愛さえあれば齢の差なんて無関係」と思っていたのだ。
 マセガキに「齢の差って気になりますか?」ともじもじしながら尋ねられたとき、七緒は彼を微笑ましく思った。きっと、学校に憧れの先生がいるのだろう、でなければ近所のきれいなお姉さんかなと思ったのだ。
 が、甘かった。
 よくよく考えてみれば、六年生、いやまだ五年生だけれど、それはともかく彼らだってそこまで何も知らないわけではない。自分をふり返ればわかる。男の子は女の子に比べると幼稚(ようち)だというけれど、だからといって頭の中が空っぽなわけではないのだ。
「お姉さん好きですって、なんなの、せめて学校の先生とか塾の先生にしてよお。なんで友だちの姉なんかに興味が芽生えるのよ!」
 足音は聞こえなかった。
 油断していたからかもしれない。
 小学生男子相手に油断もへったくれもなかったわけだが、とにかく七緒は「男の子は足音がうるさい」と思い込んでいた。弟の三波がばたばた走るから、まあみんなこんなもんだろうとたいして深く考えていなかったのだ。基本的に騒がしいものなのだと思っていた。割り切っていたともいえる。だからこそ、弟とその友だちが向かいの部屋でわいわいやっていても全然気にならず、ストレスもなく過ごせていた。
 かち、と部屋の戸が開いた音で、ベッドでうたた寝していた七緒はぼんやり起きた。
 その日は生理二日目で身体が重く、だるくて昼から横になって休んでいたのだった。
 七緒は、勝手に入ってくるなっていっつも言ってるでしょ、と夢うつつで三波を叱っていた。そして、夢うつつの中で――
「――信じられないッ」
 キスしてくるなんて。
 うああ、と七緒はテーブルに額を打ちつけた。ごっ、と鈍い音がする。
「ななちゃん! おでこ!」
「やだぁもうなんでこんな……」
 ちょん、と触れたキスは確かに幼いものだったけれど。
 行為自体は許しがたい。
 ――これって暴力じゃないの?
 泣けてくる。
 泣かないけど。
 ――ヒロちゃんに心配かけたくないし。
 そのわりに来てしまったのだから、色々な意味で救いようがなかった。
「その子に、直接好きって言われたの?」
 ぱっと起き上がった七緒に、弘がおっとり尋ねる。
 七緒は仕方なく(うなず)いた。認めるしかないことは、とっくにわかりきっている。
「うん……。好きらしいよ。何を間違ったんだか……」
 恋に齢の差は関係ないと言ったのがまずかったのだろうか。あの一言で彼の中の何かが暴走してしまったのだとしたら、
 ――あたしにも責任があるってことに……なる、かなあ。
 だとしたら、ものすごく嫌だが、言い含める努力くらいはしなければならない。
 寝ている間にキスされましたなどという事件をまったく知らない弘は、七緒がかつて彼に向けたのと同様の微笑ましそうな顔で、ふふっと笑った。
「きっと、やさしくてきれいなお姉さんに憧れてるんだよ」
「……あたしも一ヶ月前まではそう思ってたわ……」



 ――やさしくてきれいなお姉さんに憧れてる、ねえ。
 弘の言葉を反芻(はんすう)する。
 行きつけの中華料理屋『趙雲(ちょううん)』で炒飯(チャーハン)大盛りと雲呑(ワンタン)スープを腹に収めた帰り道。やけ食いというにはパンチが足りないが、気持ちとしては近かった。
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