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 たとえ役をもらえなくても、一言も台詞がなくても、新しい台本を手にするだけで、私はわくわくする。それこそ、明日の遠足が待ち遠しくてたまらない小学生みたいになる。授業なんて上の空で、頭の中で何度も何度も台本を(めく)る。
 なのに、どうにも気持ちが晴れない。一応無事に台詞は覚えられたのだけど、言葉どおり、ただ覚えただけだ。
 たぶん、恋のせいだろうとは思う。
 でも、私はこれが初恋なわけじゃない。
 何が違うのだろうか。
種田(たねだ)さん」
「……えっ? あ、――びっくりした」
 やだな、仏頂面(ぶっちょうづら)していなかっただろうか。
 私の席の真ん前に、有栖川(ありすがわ)くんが立っていた。私を不思議そうに見つめている。
 ……きれいだなあ。
 私はしみじみ思った。
 生身の人間ではないみたいだ。少し寂しそうな目もとが、密やかにきらめいて見えるほどだなんて。
 男の子にこんな評価は失礼かもしれないけれど、童話に出てくるお姫様みたい。
 有栖川くんは特別女顔というわけではないと思う。どちらかといえばそうかな、という程度だ。でも、あまりにもきれいだから。
 非現実的に端正で美しく、水晶みたいに透きとおった眼差(まなざ)しが、冬の朝の清冽(せいれつ)な大気みたいだから。
 まるで、悲劇を約束されたお姫様みたいなのだ。
 見たこともない彼の涙は、値千金(あたいせんきん)どころの話ではない。彼の瞳から(こぼ)れ落ちるのは、それこそ水晶とか、蛍石(ほたるいし)とか、そういった清らかな宝石に思えた。
「びっくりさせてごめん。彼方がどこにいるか知らない?」
 期待する要素など何もないのに、私の心は勝手にがっかりした。
「ううん。いないの?」
 平常心、平常心だ。
 私はいつもの私をきちんと演じる。有栖川くんに恋しているときの私ではない、とにかくお芝居が好きなだけの私。
 有栖川くんは困った顔で微笑んだ。
 美貌のひとは、笑顔もきれいだ。
 有栖川くんの微笑は、なんだかやっぱり少し寂しそうに見える。
「うん、見つからない」
「和葉にも()いてみた? 彼方と同じクラスの子。知ってる?」
米山(よねやま)さんだよね。知ってる」
 知っていたのか。初耳だった。
 ということは、和葉と有栖川くんは知り合いなのか。有栖川くんを知らない人間なんてまずいないから、和葉が彼を知っていることについてはなんとも思わない。
 でも……
「結果は不作?」
 平常心。平常心だ、種田千花。
「うん。残念ながら不作に終わった。有栖川のところに行ってくるって言って別れたって」
 それでこっちに戻ってきたのか。
「私でよければ伝言預かるよ。彼方が有栖川くん探しにきたら伝える」
 ――バレンタインか。
 有栖川くんはたくさんもらうんだろうな。
 私が贈ったところで考えるまでもなく不発に終わる。……考え方を変えよう。私からのチョコレートがひとつ増えたところで、紛れ込むだけで何も変わらないのではないだろうか。
 悪くない気がした。
 どうせ『成就せぬ恋』なのだ。
 ふ、と。
 有栖川くんが面を上げた。
 それから、彼は、百年待ち焦がれた幸福をやさしく抱きしめるみたいに微笑んだ。
「彼方」
 ――――――ああ。
 私は誰にも気づかれないよう、さりげなく(うつむ)いてひっそりと深く呼吸する。
 有栖川くんに呼ばれ、廊下を歩いていた彼方が立ち止まった。
 私は廊下を行く彼方に気づかなかった。見える位置にいなかった。有栖川くんも同様だ。
 それなのに、彼は彼女を見つけた。
「有栖川。ここにいたんだ」
 私と有栖川くんに寄ってくる彼方の長い髪の軌跡(きせき)に合わせて流れた、(かす)かな、本当に微かな、
 ――本当に、微かな。
「ごめん、彼方。今日は先に帰るよ」
「今日は、じゃなくて、今日も。最近ずっと」
 彼方が、やわらかな頬で冗談めかしてむくれる。彼方はちょっと()ねたみたいな顔がものすごくかわいい。本人に自覚がないから、破壊力は三割増しだった。
 有栖川くんはきれいに、寂しそうに微笑んだ。
「そうだったね。ごめん」
 彼方は気を取り直すみたいに笑った。こちらも、幾分(いくぶん)寂しそうではあったけれど。
「いいよ。有栖川が一緒に帰りたい気持ちになるまで、私、ちゃんと待てる」
 ――微かな、懐かしい香り。
 有栖川くんと、同じにおい。
 このふたり、どうして付き合っていないのだろう。
 こんな場面を目の当たりにするたびに思う。
 さっきの有栖川くんの声なんか、哀しいくらいの、苦しいくらいの甘い響きだったのに。
 ――彼方。
 あんな声を聞いて、気づかないわけがない。
 あんなに愛おしそうな、たったひとりだけに向けられた呼び声。



「恋ってひとを鋭くさせるよねえ」
「ひとによる、と、思うよ。うう」
「同意して」
「うん、ひとを鋭くさせる。私もそれ、すごく、思う、う」
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