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 私の見通しは甘かった。
 バレンタイン、有栖川くんはまったくの手ぶらだった。
 考えてみれば当然だ。彼の純情と慕情は、すべて彼方のものなのだから。
 彼方だけのものなのだから。
 誰もいない教室は、暖房のあたたかさはとっくに消えてしまっている。
 寒がりの和葉は外にいるときと同じように紺色のコートを着込み、いつものグレーのチェックのマフラーを首に巻いて、その中にもっふり顎を埋めていた。
 水色に晴れた空がきれいだ。
 閉めきった窓が冷たいのが、触らなくてもわかる。外では、乾いた風が校庭でからから遊んでいた。
 葉っぱ一枚ない黒いばかりの木が、清浄な冷気の中に静かに(たたず)んでいる。
(たくま)しいよねえ」
「逞しくなきゃやってられないの」
 そうなのだ。その程度の理由。たいしたことじゃない。
 あえておもしろくなさそうな、退屈そうな顔をつくって言った。和葉が笑う。
「うん、同感だわ」
 和葉も有栖川くんに憧れていたことを、
 ――実は、知っていた。
 それなのに、彼女はいつも私の話ばかりを聞いてくれていた。
 愛想を尽かされても仕方のないことをしてきたと思うのに、和葉は今日も私の隣で笑ってくれている。
「高校時代の恋なんて砕けてなんぼでしょ。いちいち深刻に落ち込むなんて、くっだらなーい」
 つまらなそうに言って、(いびつ)なトリュフを摘む。ぽいと口に放り込む。
 味は悪くない。見た目はひどいけど。
 そんな見た目でも、私はこのトリュフを有栖川くんにわたしたいと思った。
 生まれてはじめてつくった、バレンタインのチョコレート。
 物ぐさな私があんなに面倒くさいことをやったのだ。砕いて湯煎(ゆせん)して。我ながら信じられない。
 信じられないけれど、出来上がったトリュフは確かに目の前にある。
 向かい合っているのは有栖川くんではなかったけれど、私は十分幸せだった。
「だってさあ、こんな清々(すがすが)しい失恋、滅多(めった)にないよね。片想いしてる相手にさ、片想いしてる相手が片想いしてる相手に片想いされてる相手も片想いしてる相手に恋しててほしいって思ったとか」
 和葉があははと声を上げて笑った。
「何言ってるのかわからない。わかるけど」
「だよねえ」
 わかっちゃうんだよね。
 同じひとに恋してたから。
 そのひとが、誰よりあの子を大切にしてるっていうのも、知っているから。
 この失恋の何が清々しいって、私も和葉も彼方を好きなところだ。過去形とはいえ、ライバルということになる、のだろうけれど。でも、なんだか違うのだ。仕方がないのだ。彼方なのだから。
 私は身体を揺籠(ゆりかご)みたいに揺らして、教室に並ぶお行儀(ぎょうぎ)のいい椅子をぎしぎし鳴らした。
「あーあ。有栖川くんに恋しててほしいなあ」
「そのへんはっきりしてもらわないとねえ、私たちも困るというか。いや勝手に困るだけなんだけど」
幼馴染(おさななじ)みで両想いだけど片想いなんておいしい設定されてるんだからさ、もっとちゃんと恋物語してほしい。そうじゃないと私たち気持ちよく終われないじゃない。いつまで経っても幕が下りないなんて、困るのは役者だけじゃないんだから」
「そうなんだよねえ。すごく困る。幽霊部員の大道具の私でさえ身体半分だけ舞台にはみ出しちゃってる感じ。へーんなの」
「告白すらしてないんだけどなあ。なんだろ。実際のところ脇役にすらなれてないんだけど、便宜上は一応脇役みたいな」
 和葉はあくまで快活に笑う。
 ああ、これは、家に帰ってからひとりで泣くんだろうなあ。かく言う私も泣く予定だから、ひとに口を出せたものではない。
 だから、言わない。
 そして、もしも明日顔がむくんでいても、瞼が真っ赤になって()れぼったくなっていても、私も和葉も突っ込まない。

 バレンタインの夜なんて、泣くためにあるような時間なんだから。






END.
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