二月 恋物語の舞台裏  |  next   
三月

カラカラトランク






 三月は苦しくなるくらい明るい。何が明るいかというと、それはもうすべて、たとえば街路樹やでこぼこのアスファルト、ついこの間まで静かだったような気がする鳥の声、虫の羽音、大気の色、風のにおい、道行くひとびとの足音や、ひとも(まば)らの赤字バス、貸切状態になることも珍しくないローカル線、玄関扉の開閉する気配。
 そんなものすべてが明るくて(まぶ)しい。どれもこれもきらきらしていて、あちらこちらで光が弾けて輝き、消えては生まれていっている。
 だから、昭乃(あきの)はベッドから出られない。
 努力はしたのだ。昨日、とても晴れていたから。恐る恐るカーテンの隙間から(のぞ)き見た三月が素晴らしく晴れ上がって清潔だったから、昭乃はどきどきしながら玄関に立った。もしかしたら、こんな自分でも歓迎してもらえるのではないかと期待した。願いでもあったし、渇望(かつぼう)でもあった。
 そして、ドアノブに手を掛けた、瞬間。
 昭乃はその場で嘔吐(おうと)した。
 泣きじゃくりながら掃除をして、そして昭乃はベッドに逃げ帰った。カーテンをぴっちり閉じて陽光を(さえぎ)り、布団を頭からかぶって世界から自分を守ろうとした。
 どうしてこんなことになってしまったのか、昭乃自身もわからない。
 いつの間にか学校に行けなくなっていて、閉じこもりがちになっていた。本格的に部屋に引きこもるようになるまでに時間はかからず、気づけば昭乃は何も知らない大人になっていた。いつ成人したのかもわからない。時間の経過や、年齢の概念すら失っていた。
 それがどうしようもなく怖くて、怖くて、怖くてたまらず、昭乃は何故か両親に頼み込んでニュージーランドに行った。
 誰も知らない街や国に行ってしまいたいとはよく聞く文句だが、実際に飛び出す人間はどれほどいるだろう。おまけに、昭乃は英語が堪能(たんのう)なわけではない。サンキューとアイムソーリーと、ディスイズアペンくらいしかわからないというのに。
 昭乃のお年玉はずっと両親が貯金してくれていて、それなりの金額があった。とはいえ、遊び暮らせる額ではない。ワーキングホリデーも恐ろしかったので、結局、昭乃の滞在は一ヶ月間だった。
 何がどうしてどうなってステイ先が決まったのか、大切なことだし、大変だっただろうに、既にまったく記憶にない。だからといってステイ先の家族と関係が途切れたということはなく、クリスマスカードの枚数だけは重なっていく。
 昭乃は毎年、元気ですと嘘をついていた。
 玄関のドアノブに手を掛けただけで嘔吐する人間が元気なわけがない。でも、年に一度のカードに、とてもそんな現実を書くわけにはいかなかった。彼らは、鮮やかでやさしい四季の豊かな日本という国で、昭乃が笑顔で過ごしていると思ってくれているのだ。
 ――手紙。
 ぐずぐずと鼻を(すす)りながら、昭乃は思う。
 ――あのひとになら、世間様に顔向けできない現状も、素直に(つづ)ってきっとポストに投函(とうかん)できる。
 こんな話をされても迷惑だろうし、負担だろう。でも、考えずにはいられない。
 とても真面目な、けれど茶目っ気もある清廉(せいれん)なひとだった。人生の中ですれ違った程度の交流だったが、彼女は昭乃の手紙を受け取ったら、心を痛めてくれるだろう。そういうひとだったのだ。
 芋虫みたいになっている布団から手だけを出して、汚れたティッシュをベッドの傍に寄せてあるごみ箱に落とす。涙はまだ止まらない。抱きかかえたティッシュの箱に手を突っ込んだら、空振りした。そういえば、なんだか軽い。
 手を深く入れてみたら、案の定(から)だった。仕方なく、これもベッドに寄せてあるボックスティッシュの塔から一箱、布団の中に引きずり込む。
 涙ばかり、どうしてこんなにも(あふ)れてくるのだろう。恐々(こわごわ)と覗き見た世界に溢れていたのは光だった。昭乃にはないものだ。何がそれほど違うのかがわからない。自分が何に対してこれほどまでに怯えているのか、昭乃はそれもわからなかった。
 ここっ、と扉が鳴った。ノックの音だ。
 普通なら聞き逃してしまいそうなほど小さな音なのは、ノックをした人物が、昭乃が臆病だと知っているからだった。昭乃はまるでうさぎかねずみかというほど音に敏感に反応して驚く。怯えて身体を硬くする。
 明確な言葉で伝えたことはたぶんないと思うのに、幼馴染(おさななじ)みの由希彦(ゆきひこ)はわかってくれている。
「あーきーの」
 内緒話をするような声だ。昭乃はのろのろと身体を起こした。ベッドから下りる気力は()かない。
「起きてる?」
「……起きてる……」
 ものすごい鼻声だった。今さら見栄を張る相手でもないだけに、昭乃の(まつげ)は乾いてくれない。
「おしゃべりしよう。声がよう聞こえんから、指、一本分開けておくれ」
 扉に張りついているような響き方だ。声がこもっている。
 昭乃が答えられないでいると、
「指、二本分開けておくれ。これではお前のかわいい顔が見えぬ」
「……」
「指、三本分開けておくれ。……昭乃が今、たぶんいちばん欲しいものを持ってきたよ」
 そこまで言われて、昭乃はふ、と笑った。
 (かす)かではあったけれど、笑えた自分に驚く。思わずくちもとに手をやってしまった。
 もう笑みは通り過ぎてしまっていたけれど、確かに笑った。しかも、笑ったことに自分で気づけた。
「……意地悪して柿の木に吊るさないでいてくれるなら、……指三本分だけ開けるんじゃなくて、入ってきていいよ」
 静かに扉が開いた。
 困ったような、でもそれ以上に安堵(あんど)した表情の由希彦が、両手にボックスティッシュをぶら提げて立っていた。
「特売だったんだ」
 泣いていたことが明白な昭乃の顔には言及せず、由希彦はそれだけ言って笑った。
 ざっくり短い髪は切ってきたばかりらしく、硬い質の毛先がちくちく新しい。そういえば、前回訪ねてきてくれたとき、髪が伸びてきたから切りたいと言っていた。今日はその足で顔を出してくれたのかもしれない。
 学生時代、教師に散々注意されていたらしい彼の髪は、染めたわけでもないのに茶色い。元来色素が薄いのだ。母方の血筋らしく、彼の母親もやや明るい髪色で、肌も白い。由希彦も色白で、それがコンプレックスだった彼は、部活もあわせて外にばかりいた。おかげでよく陽に()けていて、言われなければもともと色白だとはわからない。
 性格も活発でからりと明るく、昭乃とは色々な意味で正反対だった。
 由希彦のような人間からすれば、昭乃は面倒くさい、鬱陶(うっとう)しいだけのタイプのような気がするのに、彼は嫌な顔ひとつせず未だに昭乃を気遣ってくれる。今日のように、ティッシュを差し入れてくれたりする。昭乃にはそれが不思議でならない。家も近所の幼馴染みではあるが、ひとは簡単に疎遠(そえん)になれるというのに。
 昭乃が涙と眠りの中にいた間に、由希彦の身長はずいぶんと伸びていた。思い返せば、立って並んだことはなかった気がする。彼の肩に、頭の天辺(てっぺん)は届くだろうか。
「昭乃に手紙来てたよ」
「えっ……」
 神様に届いてしまったのだろうか。
 ――まさか。
 そんなはずがない。
「おじさんから。誕生日だろ」
「あ……」
 そうか。
 そういえばそうだった。誕生日が近い。
 また何もできないまま、一年が新しくはじまる。
「う、ん……ありがとう……」
 ボックスティッシュを抱えて、由希彦は器用に扉の間に身体を滑り込ませた。ティッシュが壁と扉に当たって、ふたつがことことと乾いた音を立てる。
「おばさんはさっきそこですれ違ったよ。今日は揚げ出し豆腐だってさ」
「……さっき、わたし……」
 涙でがびがびの両頬(りょうほほ)を左右それぞれてのひらで(おお)う。誤魔化(ごまか)したかった。声は怯えて、小さい。
 両手に持っていたティッシュの箱をベッドの(かたわ)らに置いて、由希彦がラグの上に足を崩して座る。昭乃は起き上がったものの、身を守るように毛布を頭からかぶって縮こまり、シルエットは完全にコンビニのおにぎり状態だった。
 ほい、と気安く差し出されたカードを受け取る。日本の郵便規格とはまったく異なる、異国のかたち。極端な横長だから、外国においても規格外の葉書だろう。
 コウテイペンギンの赤ちゃんが、ずらっと横に並んでいた。南極の青空を背景にして、画面いっぱいに詰まっている。
「季節感まったくない……」
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