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 まっふりとした灰色の雛はぬいぐるみのようでかわいらしかったけれど、三月生まれの誕生日カードとしては少しちぐはぐだ。ぺらりと返して見た表の、切手に咲いている黄色の花だけが春だった。
 由希彦が笑う。
「昭乃、ペンギン好きだろ。この葉書見つけたときのおじさんの顔が目に浮かぶよ」
 まったくの同意見だった。恐らく、少年のように目を輝かせただろう。きっと喜んでくれると、うきうきしながらペンを()ったに決まっている。
「大丈夫だよ、昭乃」
 父は今、イギリスにいるらしい。イギリスの三月は、どうなのだろう、まだ寒いのだろうか。北海道より上にあるから寒いのかなと思いながら、カードをぼんやり見ていたら、由希彦の(ささや)くような声が聞こえた。
「俺じゃないとわからないくらいだったから」
「……哀しい顔だった?」
「いや、驚いてはいたけど、哀しそうではなかった」
 言われて胸を撫で下ろす。
 由希彦でなければ気づかないほどの一瞬の表情が、もしも哀しいものだったのだとしたら、昭乃は落ち込む程度では済まない。
 予感のような気がするからだ。それも、的中している予感のような気がする。
 そして、その予感は当たってほしくない種類のものだ。
 昭乃にそのしらせが来ることはないと、わかってはいる。けれど、心のざわめきは納得してくれない。
「誰かからの手紙を待ってる?」
 由希彦に(たず)ねられ、昭乃は(わず)かに唇を()んだ。
 ――しんどいだろうのに、わかってあげられなくてごめんね。
 泣きそうな顔で笑って、それでも普段はなんの変哲もない毎日を送ってくれる母にも、告げたことはない。仕事で行く先々から絵葉書を送ってくれる父にも同様だ。
 現在を受け入れて、昭乃が立ち上がれるようになる日をただ待ってくれている彼らに感謝しながら、同時に罪悪感を抱えて昭乃は生きている。情けないとは思うけれども、それが精一杯だった。今はまだ、それ以上のことはできない。
 昭乃は小さく(うなず)いた。
「……うん。手紙、待ってる……」
 来るはずのない手紙を、ずっと。
「ラブレター?」
 由希彦が、無神経ではなくからかう口調で言った。昭乃はまた、ふっと笑う。
 そして、笑えたことにまた自分で気づけた。
「違うよ。……あ、でも、ある意味そうなのかな?」
 涙のおさまった目尻が(かゆ)い。パジャマの袖口で擦ったら、由希彦の手にそっと止められた。
「傷がつくよ」
「これくらいじゃ傷しないよ」
 やさしい指先に赤くなった目尻を()でられて、昭乃はおとなしく目を閉じた。
「生きてるかわからないひとで……」
 今、どこにいるのだろう。
 (りん)とした立ち姿のひとだった。
 ――あー、似てるかも。私もねえ、なんかすごい苦しくなって、しんどくなって、それで国外逃亡したの。私が行ったのはフランスでね、ボンジュールしか知らなかったけど、なんとかなるよねえ。
 公園のベンチで知り合い、公園のベンチで交流した。
 お互いに名乗らなかったのだから、知り合いとは呼べないかもしれない。
 どうして名乗らなかったのかは、自分でも今でも答えられない質問だ。
 きっと、お互いにそれでよかったのだ。
 誰でもよかったわけではない。ただ、名前を知らなくてもよかった。
 昭乃はそこで、生きていくひとつのこつを彼女から教えてもらった。
「それ、届け出出さなきゃだめな案件なんじゃないか?」
「ん……そういう意味じゃなくて」
 名前も知らない通りすがり。
 昭乃にやさしくしてくれた、どこかの誰か。
 こつというにはやや荒っぽい気もするが、彼女にそれを教わったとき、昭乃はなんとなく生きていける気がした。もしかしたら私でも生きていけるかもと、驚くほど素直に受け入れられた。
 ――『ありがとう』、『ごめんなさい』、『おなか減った』。この三つを言えれば、世界中どこの国でも生きていけるよ。
 昭乃の辞書に、『アイムハングリー』が増えた瞬間だった。
 由希彦の指先が昭乃の睫を(かす)める。静かな温度にやわらかい溜息(ためいき)()れて、眠りたくなってくる。
 それは、逃避ではない安らかな眠りだ。
 由希彦だけが、昭乃をそうして眠らせることができる。
「生きてるのか、どこにいるのかわからないひとで、でも、それでいいひとなの。手紙も、本当は、待ってるっていうのもちょっと語弊(ごへい)があって……」
 期待。
 とは、少し違う気がする。
 来ないことはわかっているのだ。
 待っているといいながら、昭乃だって、(しん)から欲しいと願っているわけではない。
 ――希望。
「元気で、どこかで幸せでいてほしいって思ってるの」
「……うん」
 やさしくしてくれたひとがいる。
 やさしくしてくれるひとがいる。
 今はまだ昭乃は立つことすらできない状態だけれど、いつか、いつかきっと立って歩けるようになる日が来る。
 昭乃が諦めていないからだ。
 三月の陽気に誘われて、外に出ようと思ったのだ。春先の光を憧憬(どうけい)とともに眩しいと感じられた。今回は嘔吐して頓挫(とんざ)してしまった外出だけれど、昭乃は自ら玄関に立ち、ドアノブに手を掛けまでした。
 逃げ帰って泣いたのも事実なのに、昭乃はまた外の世界のことを考えている。
「軽い、振ったらからから音がするようなトランクで、世界中どこでも好きなところに行ってるひとなの」
 トランクを引いている彼女と鉢合(はちあ)わせたのはまったくの偶然だったけれど、今ならあれは必然だったのだと思える。
 彼女のトランクは本当に軽かった。音がする以上何かは入っていたのだろうが、あまりにもおもちゃみたいな音だったから、実際に何が入っていたのかを想像するのは難しい。
 着替えとか、日常の必需品とか、もちろんそういったものは入っていたのだろうけれど。
 ボンジュールの一言だけで国外逃亡を決め込んだのだと笑った顔が、季節を先取りし過ぎた慌てんぼうの花みたいで、どこか魔法使いみたいなひとだった。だから、もしかしたら、トランクの中は本当に空っぽだったのかもしれないとすら思ってしまう。
 (ある)いは、中に入っていたのは、名前もつけられない素敵なものだったのかもしれない。
 昭乃にとって、彼女はメアリー・ポピンズだった。
“おなか減った”。
 それをひとに伝えるということは、生きるということだ。
 生きる意志を当たり前に口にした彼女の言葉は、まるで魔法の呪文だった。彼女自身は、魔法の呪文だなんて思っていないだろう。だとしたら、あの出来事は間違いなくエブリデイ・マジックの中にあったのだといえる。
(うらや)ましい?」
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