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「うん……いいなあって、思う」
 大きなてのひらに頬を包まれて撫でられ、昭乃はゆっくりと(まぶた)を開いた。
「わたしもやってみたい」
 記憶にもないいつかに、手ひどく切りつけられたのかもしれない。もしかしたら、ずっと傷つけられ続けていたのかもしれない心が、昭乃の中にはある。それでも、昭乃には、時間を与えてくれるひとがいる。
 急かすことなく待ち、()れることなく守ってくれるひとがいるから、表面が擦り切れて()がれ落ちたような心を慰撫(いぶ)することができる。
 それが得難い幸福であること、奇跡的な幸運であることくらいは、昭乃もわかっていた。
「何も残さないようなひとだったの。好きなときに好きなところへ行くなんて、気まぐれで……もう会うことはないだろうけど、何も残さないひとだったからそれでもよくて、でも、わたしの中に残ってるの」
 何か、とても大切なものが。
 由希彦が、いつものように声にならない声で相槌(あいづち)を打ってくれる。
 さすがに、振ったらからから音がするようなトランクでの旅は、昭乃にはできそうになかった。まだ、そこまでの勇気は出ない。
 だけど、いつか。
 いつか、きっと、できるようになる日が来る。
 立ち上がって、外に出られる。
 昭乃は諦めていないのだ。だから。
 不思議だ。
 可能性を信じられる。
 心の変化は唐突だった。
 それとも、この瞬間を待っていたのだろうか。昭乃自身も気づかない間に、ずっと準備されていたのだろうか。
 頬を包んでくれている由希彦の手に、自身の手を重ねる。触れた感触は筋張った男性のものだ。
 昭乃が知らない間に(とし)を重ねたように、由希彦もまた、齢を重ねていた。
 昭乃の涙を(ぬぐ)い、安らかな眠りにつかせてくれるたったひとりのひとは、少年を過ぎ、青年になっていた。
 彼の手の大きさや触れ心地はずいぶん変わってしまったけれど、頬を包んでくれる温度や、見つめてくれる瞳のやさしさ、真摯(しんし)眼差(まなざ)しは今もずっと変わらない。
「わたしも、手紙を待ってくれるひとができるような旅したい」
 声に出して、現実を引き寄せる。
 それは恐らく、もう二度と、死んでも再会しないたった一度きりの出会いだ。けれど、人生はもともとさよならで溢れ返っている。
 だから、いいのだ。
 出会いを探す旅ではなく、さよならを探す旅。
 振ったらからから音が鳴るトランクで旅に出られるようになったら、トランクの隙間には何を入れよう。昭乃はまだ欲張りだから、トランクをいっぱいにして帰ってきたい。
「俺は昭乃からの手紙、待ってるよ」
 由希彦の体温を感じている手の反対側の手には、心配性の父から届いたバースデーカードという名の葉書がある。
 極端に横に長い、コウテイペンギンの赤ちゃんがまっふりずらりと並んだ絵葉書。日本の季節感とは大きく(へだ)たっているけれど、切手の黄色い花だけは春らしい。
 葉書も、切手も、父が昭乃のために送ってくれたあたたかい手紙だ。
 手紙は何故か、いつもどこか懐かしい。
 ニュージーランドの家族に送る今年のクリスマスカードにも、これまでとは違うメッセージを書ける気がした。
「外国から、日本の規格とは全然違う絵葉書が届くの、(あこが)れてるんだ」
 由希彦が悪戯(いたずら)っぽく、冗談みたいな顔をして、でも本気で言ってやさしく笑ってくれたから、昭乃はくすぐったくなった。微笑むことさえできた。
 わたしには帰ってこられる場所がある。遠くに行っても、待っていてくれるひとがいる。
 穏やかな確信を得られて、傷ついている昭乃の心はふわりと明るくなった。
 ――カラカラカラカラ。
 昭乃の耳の奥には、未だに彼女のトランクの音が残っている。
 カラカラカラカラ。
 彼女にも、帰りを待ってくれている誰かがいるのだろうか。日本のものとはまったく異なる規格の絵葉書を待ってくれている誰かが。
 もしもいるのだとしたら、気まぐれな旅人を待つその誰かは、昭乃と同様、彼女のトランクの音を覚えているに違いなかった。

 カラカラカラカラ。
 カラカラカラカラ。





END.
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