三月 カラカラトランク  |  next   
四月

桜の果て






 (かさね)はつんとしたつり目だ。姓も井名里(いなり)だから冗談のようだが、かわいい仔狐さんだととおるは思った。
 出会ったのが秋だったからかもしれない。
 とおるの部屋の前には小さな庭がある。春夏秋冬、どの季節も花が絶えない。
 秋の、紅葉(もみじ)の美しい季節だった。真っ赤に色づいた紅葉の陰から出てきたから、とおるはよく知られている童謡の一節を思い出したのだ。
 女の子だったら紅葉の葉を髪に()してあげたところなのだが、重は男の子だった。
 しかも、どうやらとおるに恋をしているらしい。
 四畳半の座敷には、背の低い本棚と、窓に面した文机(ふづくえ)があるきりだ。とおるはその部屋の万年床(まんねんどこ)で、今日もなんとか生きている。
 古い部屋らしく、大きな窓は低い位置にあって(たたみ)に近い。その窓は昭和から変わっておらず、少し()っていた。
 窓硝子(まどがらす)は下三分の一で区切られて、下段は木枠が交差していた。三角形の部分と菱形(ひしがた)の部分、それぞれ異なる柄の擦り硝子が()め込まれている。
 春のあたたかい日、紅に黄の格子模様の半纏(はんてん)を着たとおるは、古ぼけた臙脂(えんじ)色の座布団に座り、文机に頬杖(ほおづえ)をついていた。
 (かたわ)らにある背の高い、細長い白磁(はくじ)の一輪挿しに、花が活けられたことは一度もない。
 一輪挿しは、季節によって置く位置が変わる。
 万年床に横になっているとき、一輪挿しにあたかも花が活けてあるように見えるよう、四季によって机の上を右に左に移動した。
 桜が咲いている。
 古い木だ。
 だが、さほど大きくはなかった。
 それがちょうどいい。
 春に三日の晴れなしというが、ここ一週間ほど、晴天が続いている。気温も高すぎず低すぎず、過ごしやすい日が続いていた。おかげでとおるの体調もいい。
 とおるは、病床に()しているというわけではなかった。これといった病気を(わずら)っているわけではない。
 ただ、生まれついての虚弱体質だった。
 日常生活がやや困難なほどなのだから、生きていくのは少々しんどい。ただ、しんどいのは身体だけだった。あまりにもつらいときは心もつらくなることがあるが、大抵、とおるは静かに日々を過ごしている。
 (いおり)のような狭い離れでの生活は否応もなく隔離を連想させたが、やはりとおるの心は波立たない。古い薄い硝子窓のむこうの四季をただ眺めて過ごす日々は、幼い頃から変わらなかった。
 自分よりよほど心配な母親を見て育ったからかもしれない。彼女は神経質に気を回し、とおるの健康を守るという大義名分のもとに、とおるの可能性をひとつひとつ丁寧に(つぶ)していった。
 そんな幼少時代を過ごして、気がつけば、とおるは、私の人生はそういうものなのだろうと達観(たっかん)してしまっていた。
 逆らう気も起きない。息苦しさすら感じない。
 時折、申し訳なく思う。
 家を継いだ弟が、母と喧嘩(けんか)しているのを知っているからだ。姉さんは母さんの人形じゃない、というのが彼の主張だった。涙まで浮かべて憤慨(ふんがい)する弟を呼んで、とおるは微笑み、親は先に死ぬのだから気にするだけ損だと、なるべく残酷な言葉を選んで(なだ)めた。
 母に人形扱いされることに慣れてしまっていたのだ。
 弟が生涯の伴侶に選んだ女性も才気煥発(さいきかんぱつ)で心やさしく、お義母(かあ)さんなら心配しないで、お義姉(ねえ)さんはお願いだから、死んでしまう前にここから逃げてと言って泣いてくれた。
 とおるはやはり微笑んで、親は先に死ぬのだからと言った。
「お義姉さん」
 (ふすま)越しに優美な声がした。
 とおるが返事をすると、義妹の瑠璃子(るりこ)が顔を出した。長い髪を編み込んで上品に(まと)めている。薄青藤(うすあおふじ)に葉桜の柄のきものは彼女のきれいな一重瞼(ひとえまぶた)によく映えていたが、とおるは、ざっくりとしたアラン模様のセーター姿の彼女の方が魅力的だと思った。
 とおるの母の意向で年齢にそぐわないほどのおとなしい色柄のきものばかりを着るから、まだ年若い、娘といっていい年頃の彼女の華やかさが損なわれてしまっている。
 とおるは上半身だけふり向いて、にこりと笑った。
「どうしましたね」
「お加減はいかがですか」
 母の目の届かないところでなら、まだ娘の義妹は声を上げて笑うのだろうか。
「喋り方」
 (ひそ)やかに指摘すると、瑠璃子は二、三度(まばた)きを繰り返し、ふふ、と笑った。
「ごめんなさい。お義姉さん、具合はどう? おやつを持ってきたんです」
「おや、ありがとう。お天気のいい日が続いてるからね、調子がいいよ。おやつは何かね」
 半纏の(すそ)(ひるがえ)して、するりと身体を瑠璃子に向ける。
「マカロンです。お義姉さん、食べたことある?」
「ないなあ」
「かわいいんですよ。ほら」
 (かす)かな衣擦れの音だけで移動した瑠璃子が、とおるの横に膝をつき、文机の上に(うるし)塗りの盆を乗せた。
 白檀(びゃくだん)の香りがしんと広がる。
「おお」
 皿を覆っていたレースペーパーを(めく)った下には、ころころとした円形の菓子が並んでいた。どれも食べ物とは思えない色をしている。
「きれいだね。これはほんとに食べ物なのかな」
 とおるの食事に色彩の豊かさはない。目立つのは、精々がところ、人参(にんじん)(だいだい)色とほうれん草の深緑色だけだ。
 わくわくして(たず)ねたら、瑠璃子がくすっと笑った。
「ええ、食べ物です。紅茶とほうじ茶と両方持ってきたんですけど、どっちにします?」
「どっちがいいかなあ。紅茶なら甘いのがいいけど、マカロンの味を知らないからな。任せるよ」
「でしたら、ほうじ茶にしましょう。ストレートは苦手ですもんね」
「うん」
 (うなず)き、マカロンなる洋菓子を(つま)んでみる。
「軽いね」
「さくさくですよ」
 軽い丸い洋菓子は、桜、浅緑(あさみどり)瓶覗(かめのぞき)黄梔子(きくちなし)と、明るい色ばかりだ。
 摘んだ瓶覗を見つめて、とおるはまた頷いた。
「春の色だ」
「いいでしょう」
「うん、いいなあ」
 口にしてみると、瑠璃子の言葉どおりさくりと音が立った。
「うん、食べたことがない」
「どう?」
 あたたかいほうじ茶を湯呑(ゆのみ)()れながら、瑠璃子が興味津々の顔で尋ねてくる。こういう顔はやはり娘らしい。
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