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「変わった味がするね。おいしい」
 なんとなくマシュマロの味を想像していたのだが、違った。そもそも実物からしてふわふわしていないし、それは味も同様らしい。
 瑠璃子が笑った。
「よかった。実はマカロンって結構好き嫌いが分かれるんですよ」
「そうなのかね」
「ええ。でも色がきれいだから」
「うん、きれいだ」
 今度は桜を摘む。
 古い薄い窓硝子越しの桜と見比べた。
「外はあったかいかな」
「とても。少し厚着すれば出ても大丈夫だと思いますよ。でも、まだ夕方になる前に寒くなりますから」
 湯呑を受け取って、そうだね、と目で頷く。茶の温度はいつもちょうどいい。
「今日はあの子、来るんですか?」
 きちんと正座していた瑠璃子が少し首を伸ばして、窓の外を(うかが)った。春の光がうらうらと溢れている。庭土は乾いて、奥まっているところに()した(こけ)も微笑むようにふっくらしていた。
 風はあまり吹いておらず、桜の花弁もたまに思い出したようにちらほらと舞うだけだ。散ると呼べるほどの動きはなかった。
「ここのところ来なかったからね。そろそろ来ると思うよ」
 湯呑を傾けてとおるは(こた)えた。
「来るとしたら、お花見団子を持ってくるんじゃないかな」
 先日来たときおやつに誘ったら、ぶすくれて歯が痛いのだと言っていた。とおるはそれを聞き、自分から歯医者に行くなら一緒に花見をしよう、ここの庭の桜はきれいに咲くよと告げたのだった。
「そうなんですか。私、今日は()えてるかもしれません」
 なんだね、と視線で問うたら、盆をてのひらで示された。
 珍しい菓子に気を取られて気づかなかったが、湯呑がある。
 とおるは溜息(ためいき)をつくようにして笑った。
「ありがとう」
「ふふ。お湯もたっぷり持ってきましたから、もし来たら気づかれないように淹れてあげてください」
 瑠璃子が文机の陰から湯が入っている水筒を引き寄せる。いつもより一回り大きかった。
「厚着してくださいね。暮れる前にお部屋に戻ってください。晩ごはんのリクエストはありますか?」
「ふっふふ、ここのところそのリクエストのために太った気がするよ」
 とおるの食生活は母が管理している。だが、瑠璃子が嫁に来て、さらにここ数ヶ月間、彼女は夕食のリクエストを聞いてくれるようになった。こっそりと一品付け足してくれるようになったのだ。
「もっと太ってください」
「そういう童話があった気がするね」
「気のせいですよ。それに、私たちは姉妹です」
 (したた)かに笑って、瑠璃子は来たときと同じように微かな衣擦れの音だけをさせて退室した。
 瑠璃子が「気づかれないように」と言ったのにはきちんと意味がある。重は、とおるがひとりのときにしか来ない。どこかで見張っているのか、とおるが誰かと一緒だと、どんなに天気がよくても、たとえ土曜でも日曜でも、絶対に顔を見せなかった。
 家族のうちの特定の人物にだけ()れている野良猫みたいなものだろう、ととおるは結論づけた。
 こういう子がいてねと話しはしたが、誰かにきちんと紹介したいわけでもない。必要性もなかった。
 ゆっくりとマカロンを食べる。
 壁に掛けてある、これも昭和の時代から変わらずそこにある振り子時計がこちこち鳴っている。
 乾いた畳のにおいがする。
 とおるの世界に音はほとんどない。振り子時計くらいのものだ。ひとの足音すら記憶に遠かった。
 とおるの世界にあるのは、季節の色彩と、においと、天候だけだ。
「……来たかな」
 なんとなく思って、とおるは用意されていた布巾でぱさぱさと指を(ぬぐ)い、立ち上がった。半纏を脱いで薄手のセーターを二枚加えて着て、また半纏を着る。靴下を穿()き、さらに冬仕様の保温機能のある靴下を重ねた。
 水筒と湯呑を載せた盆を窓際ぎりぎりまで寄せ、窓を開けた。日向ぼっこ用の猩々緋(しょうじょうひ)の大きな座布団を抱える。
 しっとりとした廊下を通り、サンダルを突っかけて庭に出た。
 そうするとき、とおるはいつも、災害が起きたら自分は真っ先に死ぬのだろうなと考える。
 それならそれでいい、とも。
 外は思いのほか(まぶ)しく、とおるは(わず)かに目を(すが)めた。いつも部屋の中にいるから、古ぼけた硝子越しではない景色の明るさは、いつもとおるの目を戸惑わせる。
 窓の傍に寝かせてある古木に、ぽんと座布団を敷いた。
 そこに座り、目を閉じる。春の陽の降る音を聞きながら、桜のきらめきと、晴れた空の静けさを、そっと追いかける。
 細密に光る土埃のにおい。
「おい、とおる!」
「おや。来たね。久しぶりだ」
 突然の大声にも動じず、とおるはゆっくり、うっすらと(まぶた)を開いて微笑んだ。
「何が久しぶりだよ、びっくりさせんなよ!」
 底が平たく広がっている白いビニル袋を持った少年が、(まなじり)を決していた。つり目が厳しくなっている。とはいえ、まだ幼いぶんだけ迫力には欠けていた。輪郭(りんかく)に丸みが残っているから、狐というよりはやはり猫だと思ってしまう。狐は子どもでも鋭角的だ。
 とおるは、ふふっと笑った。
 重は恐らく、とおるが死んでいると思ったのだろう。
 よくあることだ。
 とおるは()せて蒼白く、とても安らかな顔をして眠る。
「ずいぶんと遅かったじゃないか」
 少し風が吹いた。
 あたたかい日だが、長く外にはいられない。
 重は、う、と詰まり、視線を()らした。微かに(ほほ)を染めて、もごもごと口を動かす。
「なんだよ。自分から歯医者に行ったら、一緒に花見してくれるって言ったじゃん……」
「うん、言った」
「じゃあいいだろ。予約がいっぱいで……今日だって、……さっき終わったばっかでさ」
 とおるはぱちりと瞬きをした。
「すぐにお団子なんて食べて大丈夫なのか」
「先生に確認した! さっきっつっても、そんなにさっきなわけじゃねーし」
「そうか」
 のんびり言って頷き、にっこりすると、重は今度は違う意味で頬を染めた。
「君、突っ立ってないでここにおいで」
 隣をぱたぱた叩く。重は僅かばかり逡巡(しゅんじゅん)してから、唇を()んで隣に座った。
「なあ、とおるさあ、いつになったら俺の名前呼んでくれんの? 覚えてるよな?」
「井名里くんだ」
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