四月 桜の果て  |  next   
五月

小さな部屋






 がしょんと鍵を回して、飾り気もなく、防犯面でも不安しかないドアを開けた。
 電気を()ける必要もない、いいお天気だ。がんばって南向きの部屋を探したんだということで、古いし狭いしお風呂はないし、お手洗いも共同の一室だけれど、彼はとても満足している。生活に密接に関係していないせいもあるだろう。
 ――関係ないか。柘植(つげ)さんだしなあ。南向きの部屋ってだけで満足しそう。
 するだろう。絶対。
 たとえ彼が毎日の生活をここで送るのだとしても、不満とは縁遠いに違いなかった。柘植(ひびき)とはそういう人物なのだ。
 私は吊り下がっているたくさんの写真を落とさないよう気をつけながら、玄関脇に置いてあるお掃除セットを持って部屋の奥に進んだ。ここから玄関に進むかたちで掃除をするのだ。
 週に一度の習慣だった。
 おまじないでもあった。
 壁から対角線上の壁へと張り巡らされた(ひも)は一本ではない。彼がこの部屋に帰ってくるたびに増えている。
 その紐に、晴れた空の写真が吊られているのだった。
 空は大抵快晴。
 おかげでこの部屋は一年三百六十五日、外が土砂降りでも台風でも、たとえ梅雨でも、ついでにいえば深夜二時でも青空が広がっている。
 柘植さんが私のためにしてくれたことだった。
 私は都心部のマンションで生まれ育った。交通の便もいいし、お買い物にも困らない。気の利いた贈り物をと考えたときに回れるお店もたくさんある。
 その代わり、燃え上がるような夕焼けや、金色に輝く海、人工物がまったくない視界の七割を()める青空を見たことがなかった。
 旅行に行けば見られるものではあったけれど、生活の中にはない。それに、青空はともかく、世界のすべてが赤く染め上げられるような夕焼けはそうそう見られるものではない。
 柘植さんにはじめてその写真を見せてもらったとき、私は加工だと思った。CG画像だと思ったのだ。それくらい赤かった。
 緋色(ひいろ)深紅(しんく)といった様々な赤が折り重なって、ミルフィーユみたいになっていた。建物なんて一切写り込んでいない。空を仰いで撮ったのかと(たず)ねたら、俺が育ったとこはこういう場所なんだと笑って話してくれた。
 ――こんなふうに、空に囲まれて暮らしてみたいなあ。
 何気ない(つぶや)きだったのに、柘植さんはしっかり覚えていた。
 ――寝に帰ってくるだけの場所でも、一応欲しいと思ってたから。
 とかなんとか嘘か本当かわからないことを言って、私の誕生日にこの部屋に案内してくれた。
 だからここは、最初から生活のための場所ではないのだった。
 柘植さんはそんなに裕福なわけではない。どちらかといえば食うや食わずに属すると思う。空とか虫とか動物ばかりを撮るカメラマンで、仕事がないわけではないけれど、有名というわけでもない。
 それでも、彼は私のために空の部屋をつくってくれた。
 だから私は掃除をする。
 空に(ほこり)が溜まらないよう、古い(たたみ)ですら反射するよう、休日丸一日をかけて隅から隅まできれいにした。
 どんなに仕事でへとへとになっていても、欠かしたことは一度もない。
 ……さすがにインフルエンザに(かか)ったらお休みするけど。
 でもそれくらいのやる気と根気はあるし、今のところ記録が途絶えたことはなかった。
 それに、これはおまじないなのだ。
 彼はどこだかわからないところへ行く。いや、わからないわけではないのだけれど、不安になってしまうようなところへ行く。
 虫や動物を追いかけているのだから、当然といえば当然だ。偏見かもしれないけれど、珍しい虫、なんて言われたら、どこの秘境へ行くのかと思ってしまう。
 熱を出していないかしら。
 怪我をしていないかしら。
 おなかを壊していないかしら。
 もしそうなっていたら、きちんとお医者様に診てもらっているかしら。
 ――死なないように。
 いつも元気で帰ってきてくれるように、私は部屋を掃除する。部屋が荒れると、部屋自体が持ち主のことを忘れて、迎えてくれなくなる気がするのだ。帰れる場所という大切な記号を放棄してしまう気がした。
 部屋に忘れられた持ち主はどうなってしまうのだろう。
 思うと怖くて、やっぱり私は掃除をするのだった。



 桜が散って、もうずいぶんあたたかくなった。陽が落ちても寒いと感じる日がほぼない。梅雨もまだ迎えておらず、毎日(さわ)やかな晴れ空が続いていた。
 畳を乾拭きし、一息つく。持ってきたお弁当を開いた。
 ――もしもこのタイミングで柘植さんが帰ってきたら、コンビニのご飯じゃ寂しいもの。
 ぱこ、と(ふた)を開ける。
 哀しいことに、お料理はあまり得意ではない。ひとり暮らしだからなんとかかんとか、一応は、という感じだ。
 ――でも、今日はミニハンバーグもグラタンも上手にできたのよう。
 ふふ、と笑った。
 必殺『たくさんつくって分割冷凍』はとても優秀なのだ。
 今日はいつもよりもやけにすっきり起きられて、しかも朝焼けまで見られた。
 きれいな朝焼けは、きれいな夕焼けとちょっと似ている。
 使われている色が違うけれど、どちらもミルフィーユ。
「朝焼けミルフィーユと夕焼けミルフィーユがお買い得……」
 よくわからない独り言を言って、私はハンバーグを食べた。
 四角く区切られた空はほんのりやさしい水色で、五月らしい若芽の気配のする光が部屋に射し込んできている。窓側の壁にもたれている頭があたたかい。
 食べ終わったお弁当を片付ける。おなかがいっぱいになって、あたたかくて、少し眠い。まだ掃除は終わっていないのにと思うものの、睡魔(すいま)愛撫(あいぶ)は甘すぎる。
 うとうととつま先にかかる埃っぽい午後の明かりを眺めていたら、
 ――がしょんっ
 と音がした。
 私は、ひっと跳び上がる。
 ――がしょんっ
 もう一回。
 ――なに? 誰。
 防犯面を考慮して、私は必ず鍵をかけて掃除をする。
 ――一回目が鍵がかかっててびっくり? 二回目が鍵を開けた音?
 だろうか。
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