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六月

梅雨明け、コンビニにて






 天気予報が外れた、という言葉は、予報が0パーセントか百パーセントのときにしか使えない。一パーセントでも偏りがあるのなら、可能性は残っているからだ。
 昨今の気象衛星は大変優秀で、そのおかげか天気予報の精度はすごい。
 大雑把にすごいとしかわからないのは、私が気象観測にも、気象衛星にもさしたる興味がないからだった。私にとって大切なのは、雨に濡れずに登下校できるか否か、友だちと身軽に遊べるか否か、洗濯物を干せるか否かのその程度なのだ。
 梅雨時期は、(かばん)の中に折り畳み傘を入れるようにしている。
 濡れて帰って風邪をひいて、それが家族に飛び火して、ひとり無事だった姉にそれはもうこっぴどく叱られた。それ以来、私は特に梅雨時期は傘の携帯を忘れない。
 ――はず、だった。
 忘れた。
 朝は晴れていたのと、少し寝坊したのが敗因だ。と、思う。よく覚えていない。忘れないための対策として、単純かつ明快、そして限りなく効果を発揮する必殺技『いつも入れっ放し』が発動しなかったのだ。いつ取り出して、どこに置いたのかも覚えていなかった。
 家に忘れているのならいい。どこか、外に忘れているのだとしたら落ち込む。だって、姉がプレゼントしてくれたものなのだ。もう二度と風邪をひくなと言って、ぶっきらぼうに贈ってくれた、大切な誕生日プレゼントなのに。もし家になかったら交番に届けよう。
 そんなことを考えながら、私は梅雨空、土砂降りの中、コンビニの(ひさし)の下に避難していた。
 下校中の突然の雨で、もうかなり濡れてしまっている。髪からぼたぼた(しずく)が落ちているし、鞄の中のノート類の被害もすごい。
 さすがにお店には入れない。でも、お店の前に立ち続けるのもつらかった。
 コンビニだっていい迷惑だろう。ただでさえ客足を遠ざける薄暗い梅雨に、店舗前にそぼ濡れた女子中学生が亡羊(ぼうよう)と立っているのだ。不気味すぎる。
 あまり使いたくない手ではあるのだけれど、仕方がない。やむを得ない場合というのは必ずある。そして、その場合のために、携帯電話という文明の利器があるのだ。
 携帯電話を取り出そうとして、ポケットに戻した。
 忘れていた。今日は結婚記念日で、両親は朝からデートだ。映画館デートをするとか言っていた。ディナーまで食べて帰ってくるのだそうだ。
 何を食べてくるのやら、お寿司だったら(ねた)ましい。
 ほかにどうしようもなく、私は溜息(ためいき)をついた。それくらいしかすることがない。今の私にできることは、なんの情緒もなくざんざん降る梅雨ど真ん中の雨を眺めながら肌寒さに耐え、せめて少しでも雨足が弱まるのを祈ることくらいだった。
 寒いんだよなぁと思う。
 梅雨はどっちつかずだ。マフラーが欲しいと思うくらい寒い日があるかと思えば、制服のスカートさえ鬱陶(うっとう)しいくらいの蒸し暑い日もある。どちらが好きというわけではないけれど、蒸し暑い方がましだった。雨と寒いがセットになると、私は姉に叱られたことを思い出してしまう。普段つれない姉が私のことをすごく心配して、すごく叱ってくれた。だから怖かったし、同じくらいうれしかった。
 私は、姉がプレゼントしてくれた水色の水玉模様の折り畳み傘にかけて、絶対に風邪をひくわけにはいかないのだ。たとえ傘が手もとになくても。
 ういーん、と音がして、自動ドアが開いた。ドアからは遠いところに立っていたけれど、なんとなくさらに半歩ドアと距離を置く。
 背の高い男性が、ぱしゃぱしゃ小走りに車に向かっていった。
 ――軽自動車で狭くないのかな。
 体感、たぶん百八十センチ前後。ちょっと足りない、かも。いやでもなんだか漫画みたいな等身をしている。雨のカーテンがやたら分厚いから判別が難しいけれど、等身が高いとなれば、単純に考えてもうちょっとプラスだろうか。するとやっぱり百八十センチくらい。
 我が家は父も母も背が高いので、当然私たち三姉妹も背が高い。姉は百七十センチを超えている。私はまだそこまではいっていないけれど、まだ伸びる気がしているし、妹もまだまだ伸び盛りだ。
 背が高い女なんてかわいくないとかいう馬鹿な男の子は、世界で活躍しているモデルさんやアスリートを見たことがないのだろうか。比べるのは烏滸(おこ)がましいけれど、身長だけの話なら変わらない。
 雨の音が、チャンネルの合わないポンコツラジオの極小音量みたいに聞こえる。嫌いじゃないけど如何(いかん)せん寒い。
 てのひらをくちもとに当てて、は、と息をかけた。あたたまるような気がするのは幻想で、きっとマッチ売りの少女はこんな感じでチキンやツリーやおばあちゃんを見たのだろう。
 梅雨のコンビニなんて、生ぬるいにもほどがあるけど。
 ぱしゃぱしゃとさっき聞いたばかりの足音がして、視線をずらすとあの男性が立っていた。手に黒い男物の傘を持っている。
 何事かと見上げて、
 ――言葉を失った。
 一瞬、大理石の像か、絵本の挿絵(さしえ)かと思ってしまった。
 その男性は、現実離れして美しかった。
 黒い髪がずぶ濡れに濡れて、文字どおり(からす)の濡れ羽色になっている。描いたみたいなきれいな眉と、(うらや)ましいくらいの長い(まつげ)
 薄暗い雨空の、灰色の景色の中でもはっきりそう思ったのだ。晴れた日に見たら、どれほど輝くのだろう。
 黒い瞳がきらきらしていて、まるで石を磨いたみたいだった。こういう黒い宝石があったと思うのだけど、名前を思い出せない。
 目もとが少し、寂しげに見える。
 やさしく微笑している(さま)蜃気楼(しんきろう)のように遠い。
 悲劇を約束された、童話の中のお姫様の亡骸(なきがら)みたいな美貌(びぼう)だった。
 ――こんなきれいなひとがいるんだ。
 ときめきはしなかった。あまりにも非現実的な容貌だったから、心臓はかえって静まり返っていた。
 きれいな男性が、傘をすいと差し出す。
 戸惑っておずおずと見上げたら、にっこり微笑まれた。
 今度はときめいた。
 男性が何を口にしたわけでもないのに、受け取るのは図々しいだろうか。――とは思うものの、男性は傘を差し出した格好で止まっている。……まるっきり絵画だ。
 私はそっと黒い傘を受け取った。
 男性が、安堵(あんど)の吐息を()らすのがわかった。それから、ジャケットのポケットをごそごそしだす。
 何か、……メモ帳、だろうか。何か書きつけている。
 なんだろうと見つめていたら、ぴら、とメモを向けられた。そこには、お手本みたいな字で、
“どうぞお使いください。返していただかなくてかまいません。”
 ――あ。
 このひと、しゃべれないんだ。
“私は車があるので問題ありません。お気をつけて。”
 私はあわあわした。
 はっきりしっかり文字を書いたし、白杖(はくじょう)も見当たらないし、車に乗っているのだし、視線も合う。目は見える。
 私はうんうん(うなず)いた。
 耳が聞こえるのかどうかはわからなかったけれど、私は慌てて言った。
「あ、あの、ありがとうございます」
 ええと、それから、
「大事に使います!」
 男性はきれいに微笑んだ。
 ――絶世の美貌で、声を持たないなんて……
 土砂降りにもかかわらず、車に乗る前にぺこりと頭を下げてくれた男性に、手を振って(こた)える。
 私は呆然と(つぶや)いた。
「……人魚姫ってほんとにいたんだ……」

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