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 人魚姫の男性が貸してくれた傘を差して、私はやっと帰宅した。キッチンから、私の好きなにおいが流れてくる。
 蝙蝠傘(こうもりがさ)を丁寧に(たた)み、私は水浸しのローファーを脱いだ。少し迷って、傘を壁に立てかける。濡れたまましまうわけにはいかない。
「ただーいまー!」
 我が家では、雨に降られて帰ってきたときは、玄関でただいまサイレンを鳴らすことが義務づけられている。
「おうおかえり。タオル使えよ」
「はーい!」
 キッチンから、姉のぶっきらぼうな声が返ってくる。このにおいがして、姉がキッチンに立っている、ということは。
 うっふふふ、と笑いながら靴下を脱ぎ、下駄箱の上に置かれているタオルで足を(ぬぐ)って、とりあえず鞄は玄関の三和土(たたき)に置いた。
「お姉ちゃんの焼き飯!」
 ばん、とリビングのドアを開ける。私の満面の笑みを受けて、お姉ちゃんが苦笑した。
「いいタイミングだな。スープは自分で入れろ。その前に風呂に行ってこい」
「はーい!」
「ついでに満子(みつこ)呼んでくれ」
「はーい! みっちゃんごはーん!」
 二階から、「ふぇぁああい」という変な声がした。妹の満子の返事だ。この返事はテスト前ならいつでも聞ける。
「鞄も靴もなんとかしろよ」
「はーい!」
 お姉ちゃんの焼き飯!



 お姉ちゃんの焼き飯が、いつもより豪華だった。普段は具は卵だけ、たまに刻んだハムが入っているくらいなのに、なんと人参(にんじん)、ピーマン、玉葱(たまねぎ)まで入っている。しかも、盛り付けられたてっぺんには刻み葱まで鎮座していた。
「すごーいー」
「結婚記念日だからな。直接的か間接的かは置いといて、あのふたりあればこそだよ。てことでそこらにあるもん好きに使わせてもらった」
「やったぁ。あたしお姉ちゃんの焼き飯がいちばん好きなんだよねぇ」
「母さんが泣くぞ」
「ないしょにするもん」
 ありがとう、お父さん、お母さん! お寿司食べてきてくれていいからね!
 うきうきしてスープカップを棚から出し、プラスチックの抽斗(ひきだし)、上から二番目の段からインスタントのコンソメスープを取り出す。メインはお姉ちゃんの焼き飯なんだから、おまけはインスタントで十分なのだ。
 お姉ちゃんと私と妹の満子、三人のカップを並べてスープの素をさらさら入れる。お湯の沸騰を待っている隣で、何故かお姉ちゃんは蕎麦(そば)()でていた。
「そういや百子(ももこ)。おまえの傘、あたしの鞄に入ってたぞ」
「うそっ」
「嘘言ってどうする」
 確かに。お姉ちゃんが嘘を()くメリットは何もない。
 なんで、どうなったらそうなるのだろう。
 まあ、まったく記憶にないけれど、交番のお世話にならずに済んだ。それでよしとする。
 お姉ちゃんはかちんとコンロの火を消して、
「おかげで濡れずに済んだ。傘の柄が恥ずかしかったが」
 と、意地悪く笑って言った。私はむくれた。
「ひどい! お姉ちゃんが買ってくれた傘なのに、馬鹿にしないで!」
 どこかに置き忘れてもすぐにわかるように、交番のお巡りさんや駅員さんが一発で探し当てられるようにと選んでくれた目立つ柄だ。
 水色の大きな水玉模様がかわいくて気に入っているのに。
「悪い、怒るな。冗談だよ。助かったからな、蕎麦茹でてやってるだろ」
 ううずるい。
「えー? あたしにはないの?」
 お茶の準備をしていた満子が不満そうに唇を尖らせる。お姉ちゃんは少し笑った。
「ない。欲しけりゃ自分で茹でろ。百子、つゆは自分でやれよ」
「はーい!」
 お姉ちゃんは私の扱いをよくわかっている。私はお姉ちゃんに特別扱いされると機嫌がよくなるのだ。
 満子がずるーいと言って、私とお姉ちゃんの間に割り入ってきた。
「危ない。火傷(やけど)するぞ。満子、おまえはほんとに……欲しいなら足せばいいだろうが。おう、てんつゆ。飯だ」
 しっぽをぴんと立てて、白い猫がお姉ちゃんに寄っていった。譲渡会でお迎えした愛猫で、名前はてんつゆ。瞳の色が稀釈(きしゃく)したてんつゆに似ているからこの名前がついた。
 白くてつやつやしていて、きゅっと細い身体はシャム猫みたいで洋猫っぽいのだけれど、顔は思いきり日本猫だ。そのアンバランスさがとてもかわいい。
 ――瞳。
 瞳の色か。
 黒い宝石。
 人魚姫の睫は霧雨に濡れる森みたいだった。
 また会えるだろうか。



 ゼリー買ったけどもうあげないからねっ、と満子が脅迫してきたので、私は仕方なく満子の分の蕎麦を茹でた。
「うう、計算達人テストなんかなくなればいいのに」
「この前は漢字博士テストなくなればいいのにって言ってたよね」
 のびてしまうからと先に食べた蕎麦の器はもう(から)だ。
 お姉ちゃんの焼き飯は今日もおいしい。おこげの具合が最高だった。
 お父さんもお母さんももちろん焼き飯はつくれるし、つくってくれるけれど、お姉ちゃんがつくるみたいなおこげは出せない。
 満子は焼き飯を食べながら眉根を寄せる。
「どっちもなくなればいい。あたしも(ひろむ)君みたいに頭良ければいいのになあ」
 満子の(なげ)きを聞いて、お姉ちゃんが(かす)かに笑った。
 お姉ちゃんはあまり笑わない。ぶすくれているのではなくて、いつもつれない顔をしている。たぶん、クールビューティーというやつだ。たぶんというのは、お姉ちゃんは特別美人なわけではないから、ほかのひとから見たらビューティーは褒めすぎと思われるだろうな、という意味。
 私からすれば、お姉ちゃんは立派なクールビューティーだった。
 長身をコンプレックスにしていないお姉ちゃんは、猫背になんかならない。ピンストライプのシャツだって普通に着る。そういうところがかっこいい。今の格好だって、白のカットソーに黒い無地のパーカー、スキニージーンズは高校生の女の子としてはちょっとそっけない感じだけれど、お姉ちゃんにはすごく似合っている。
「あいつの頭の良さはただの好奇心だ」
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