back  |  next   
 弘君の話をするときだけ、お姉ちゃんの表情はいつもよりぐんとやさしくなる。
 弘君はお姉ちゃんの同級生の女の子で、たぶん……親友? どうなのだろう。小学校の六年生からずっと仲がいいのは知っているけれど、それしか知らない。
 弘君はとても頭がいい。テスト万年主席という、漫画にしかいないような成績を持っている。教えるのも上手いし、やさしいから、私もテストの前にはよくお世話になっていた。
(もも)姉ちゃん、そういえばどうやって帰ってきたの?」
「今さら? 歩いて帰ってきたよ」
 雨はもう止んだだろうか。
 窓もぴったり閉めているし、カーテンも引いているからわからない。怖いくらいの音がしないということは、少なくとも豪雨ではないのだろう。
 ひどい雨だった。人魚姫は無事に家に帰れただろうか。
「……人魚姫に傘貸してもらったの」
 そうとしか言えない。
 だって、それくらいきれいだったんだもの。
 芸能人とか俳優さんとかモデルさんとか、きれいなひともかっこいいひともたくさんいるけれど、彼ほどのひとは見たことがない。誰それに似ているとも思わなかった。
 誰にも似ていないきれいなひと。
 満子が怪訝(けげん)な顔をする。
「陸なのに? あ、人魚姫だから陸にいるか。でも、ええ? 何それ。どういう意味?」
「そのまんま。すごいきれいなひとで……」
 ちょっと口ごもった。
「……しゃべれないみたいだったから」
 だから、人魚姫。
「ねえ、お姉ちゃん。黒い宝石って名前なんていうの?」
「もっと絞ってくれ」
 スープカップを持ったお姉ちゃんが淡々と言う。
「う、んと……とにかく真っ黒な……きらきらしてて、……濡れてるみたいなやつ」
 上手く言えない。
 人魚姫の瞳、鮮やかに思い出せるのに。
 寒い冷たい水のにおいが立ち込めていた、あれはもしかして水底だったのだろうか。私がコンビニ前に立っていると思い込んでいただけで。
 お姉ちゃんはしばらくスープカップの中をじっと見つめていた。考えてくれている。それから、少し眉を寄せて首を傾げた。
「……黒曜石(こくようせき)か?」
「それ!」
 それだ!
 思わず大きな声を上げてしまった。ごめん、と謝って小さくなる。
 ――黒曜石の瞳。
「傘、返さなくてもいいって言われちゃった……」
「残念そうに言うなよ」
 お姉ちゃんが揶揄(やゆ)する口調で少し笑って、私は。
「……だって、また会いたいもん」
 ()ねた口ぶりで返した。

 きれいな人魚姫。
 誰に恋をしているのかしら。




 天気予報に曇りマークが増えはじめ、晴れマークもちらほら見えはじめた。
 昨日、一昨日と容赦ない雨が降って、この世のすべてを裏切るみたいに晴れた空は青くて(まぶ)しい。
 無責任に過ぎ去った雨のおかげで蒸し暑い。じりじり陽炎(かげろう)が見えないのが不自然なくらいだった。
 私は蝙蝠傘を抱いてコンビニの前に立っている。待ち合わせているわけではないけれど、待ち惚け。
 ――待ち惚け。
 だって、会いたいんだもの。
 黒曜石の瞳の人魚姫。
 結局あれから一度も会えないままだった。返さなくてもいいとは言われたけれど、返したくて。
 会いたくて。
 でも、名前も何も知らないから、コンビニの脇に立って待つしかできない。
 ――泡になって消えてしまったのかしら。
 梅雨の息吹が見せた、気まぐれな幻だったのかしら。
 私の目の前に広がるコンビニの駐車場は、明るく開けてとても暑くて、空も緑も、アスファルトの色も、道路の横断歩道も、縁石も、どれもみんな色が弾けている。目が痛いくらいに、それぞれ絵具をそのまま乗せたみたいな鮮やかさで輝いている。
 ――幻だったのかしら。
 絵本の挿絵みたいだったから、そうかも、なんて思ってしまう。
 黒い蝙蝠傘はしっかり私に抱かれているのに、人魚姫だけがゆらゆら夢の中にいる。
 あの日、コンビニ前の景色は梅雨色(つゆいろ)一色で、紫陽花(あじさい)の紫ですら(にじ)んでいた。道路も駐車場も白くて、冷たい水のにおいが立ち込めていた。
 ――消えちゃったのかなあ。
 人魚姫の恋は叶わない。
「あっれ、有馬(ありま)
 頓狂(とんきょう)な声が聞こえて、私は(うつむ)いていた顔を上げた。
清家(すがや)くん」
 同じクラスの清家くんが、自転車に(またが)っていた。(かご)に大きなリュックを無理矢理突っ込んでいる。
 清家くんは自転車から降り、親しげに笑いながら歩いてきた。コンビニ脇の駐輪場に自転車を停めて、何故か私の隣に並ぶ。
「何してんの? 誰かと待ち合わせ?」
「……あたしが一方的に待ってるだけ」
 言い訳をして、蝙蝠傘を胸に抱く。
 清家くんが、物珍しげに私を上から下まで眺めた。
「なに?」
 まさか、わざわざ寄ってきて、背が高いかわいくないと言うとか?
 小学生のときにそうやってからかわれたことがあって、私はぎゅっと眉を寄せた。唇を()んで清家くんを(にら)む。彼は未遂だから、今のところ私が勝手に怒ろうとしているだけだ。
 清家くんは私を少し見上げて、にっと笑った。
 back  |  next



 index