六月 梅雨明け、コンビニにて  |  next   
七月

嘘泣き上手のゼロ地点






 ぺちん、という音は実に間抜けだった。少なくとも、(なぎ)の耳には間抜けに聞こえた。
 所詮(しょせん)、女の力などこの程度のものなのだ。
 (ほほ)(しび)れは確かに痛みだという認識はできるけれど、それだけだ。口の中が切れているわけでもない。彼女の平手打ちは凪の顔の角度すら変えられなかった。
「気、済んだ?」
 古風な呼び出しを受けて、きっとそうだろうなと思ってついてきたら、案の定そうだった。あまりにも予想どおり過ぎて笑いも出ない。面倒くさいの一言に尽きる。
 そして、それが彼女の怒りを助長(じょちょう)したのだろう。
 これも予想できたことだが、だからといって、こんなとき、凪はどんな顔をすればいいのかわからなかった。泣けばいいのだろうか。ごめんなさいと謝って、身を小さくして震えればいいのだろうか。
 女の子みたいに。
 そうすればたぶん、凪を囲んでいる女の子たちは驚くだろう。そして、それ以上に嫉妬(しっと)するに違いない。
 凪の泣き顔は、とてもかわいいから。
 凪の泣き顔を見て嫉妬しなかった女はいない。泣き方も数パターン持っていて、かわいく見える角度も知っている。
 つまり、凪にとって、泣くとはパフォーマンスだった。
 気を()くための、(ある)いは()らせるためのもの。本気の涙をひとに見せたことはない。
 凪は引っ(ぱた)かれた頬を手の甲で擦った。
「言っとくけど。声かけてきたのはあっちだから。僕の方にだけ来るのって不公平なんじゃないの?」
 それでも、それが女の怒り方なのだと、凪はよく知っている。
「男のくせに、」
「男のくせに、何? その男に声かけたのも男なんだけど。あんたの彼氏だよね。男に寝取られたから怒ってるの?」
 と言いながら、実はそこまでいっていない。声をかけられただけだ。こっ(ぴど)くふってやって終わった。交わした言葉も街角のナンパより数少なく、内容もまったく覚えていない。
「それとも、僕があんたより美少女だから怒ってるの?」
 凪を引っ叩いた女の子が蒼褪(あおざ)めた。赤くなるのを通り越したのだ。
 ――うっわぁ、これなら般若(はんにゃ)の方が美人。
 知らず嫌そうに眉を(ひそ)めてしまう。凪の顔だとそんな表情ですら退廃(たいはい)的な魅力があって、それが相手の怒りをさらに(あお)った。
 もう一発来るかな、とぼんやりと思っていたら、
竹原(たけはら)くん! 見つけた!」
 突然声が降ってきた。見上げると、ひとりの女生徒が二階の窓から身を乗り出していた。にこにこしながら、胸の横で小さく手を振っている。制服の半袖から伸びた腕が(まぶ)しい。
 ――誰だっけ。
 口調からして後輩でないことは確かだが、それ以外はわからない。鬱陶(うっとう)しい長い前髪に野暮(やぼ)ったいおさげ、おまけに眼鏡までかけている。凪の感想は、
 ――だっさ。
 だった。
「探しちゃったよう。はやく来てくれないと、先生に見つかっちゃう」
 凪を取り囲んでいる女の子たちは、一様にぽかんとしている。わからないでもない。
 誰がどう見たって揉め事の真っ最中なのに、自分から関わってくる人間がいるなんて信じ難いことだ。学校などという狭い範囲でこんなことをすれば、火の粉がかかるのは想像に難くないはずなのに。
 もしかしたら馬鹿かもしれない。
 ――『お巡りさん、こっちです!』ってやつね。
 女生徒が誰だかわからなかったし、教師を引き合いに出してきたりして、突っ込まれたときどう切り返すつもりなのかわからなかったが、この面倒事から解放されるなら乗るしかない。いい加減飽きているのだ。
「すぐ行くよ。待ってて」
「はやく来てね!」
「わかってるから、目立つことしないで。恥ずかしい」
 さりげなく女の子たちに厭味(いやみ)を言って、ついでに流し目をくれてやった。女の子たちが息を()む。
「もういい? そろそろ行かないと、先生にとっ捕まるんだけど」
 呆気(あっけ)ないものだった。
 凪は何事もなかったかのように、女の子たちの隙間を()って校舎に向かった。後ろで、
「淫乱!」
 負け犬の遠吠えが聞こえた。



 校舎に入ると、夏の熱気が少し和らいだ。暑いことに変わりはないが、日陰なだけなんとかましになっている。
 突然の明度と彩度の落差に困惑した目がちかちかした。
 凪を助けたダサい女生徒は、階段の上り口で待っていた。ノートと教科書、ペンケース、あとは何か薄い紙を持っている。
「ありがと。助かった」
「よかった。ビンタ張られてるのなんて、はじめて見たからびっくりしたよ。本当にあるんだね」
 平和な世界で生きてるんだなと思ったが、ごくごく普通に暮らしていれば、恐らく平手打ちをばんばん喰らわされることなどないだろう。嫉妬に狂った女の平手打ちが日常の中に組み込まれている凪の方が特殊なのだ。
「ほっぺた大丈夫?」
 凪より少しばかり低い位置から、ダサい女生徒が覗き込んでくる。
「慣れてるから平気」
「ビンタされるのに?」
 眼鏡の奥の瞳が驚く。ビンタに驚く生活がある方に驚くのが凪だから、ダサい女生徒の反応を見て、つくづく住む世界が違うのだなと思った。
「まあね。僕ってかわいいでしょ?」
 人差し指で自身の顔を指さす。
 ぱっちりとした双眸(そうぼう)二重瞼(ふたえまぶた)(まつげ)は人形のように長い。頬の輪郭(りんかく)はさすがに少女のものとは異なっているが、瑞々(みずみず)しく(うる)んだ唇が可憐(かれん)だった。色が白いから、その赤が新鮮に映えている。
 染めたわけでもないのにやや明るい髪色が、凪の容姿(ようし)を透明に、繊細に見せていた。
「うん。かわいい」
 ダサい女生徒は拍子抜けするほど素直に(うなず)いた。内心呆れながら、凪はふるっと首を(すく)める。
「だから嫉妬されるの」
「それでビンタ? 何も解決しないと思うけど」
「そういう問題じゃないんじゃないの。ああいうのにとっては」
 さすがに、ひとの彼氏に声をかけられての揉め事だとは言えない。
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