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 ダサい女生徒は「そういうものかなあ」と不可解そうに唇を(とが)らせた。
「ねえ、ほっぺた冷やそう? 赤いよ。痛くないの?」
「慣れ過ぎてて平気。君、誰?」
 廊下を歩きながら訊く。もう下校時間はとっくに過ぎているから、静かなものだ。遠くから部活動のざわめきがやわらかに聞こえてくるだけ。
浅野(あさの)未冬(みふゆ)。……同じクラス、……なんだけど……」
 眼鏡の奥の瞳が少し大きくなって、それからどこか落胆したような色になった。呆れたのかもしれない。
 自分は相手のことを知っていて、名前まで呼んで助けに入ったのに、助けた相手に「誰?」などと聞かれては、落胆するのも無理はないだろうとは思う。なんといっても、同じクラスなのだ。恩を売る気持ちがなくても、がっかりはするだろう。傷つけたかもしれない。
「クラスの人間、三分の一も覚えてないから。ごめんね」
 たいして悪いとは思っていないが、謝る言葉だけならタダだ。
「うん、まあ……わたし、地味だし。覚えてもらってたら奇跡っていうくらいだから、いいよ、気にしないで。とりあえず、教室入ろう」
 在籍しているクラスに着くと、未冬はがらりと扉を開けて窓際の席に座り、入り口で突っ立っている凪に手招きをした。
 溜息(ためいき)をついて、仕方なく従う。多少なり時間を(つぶ)さなければ、あの女の子たちの待ち伏せに()いかねない。
「さっきの文句、どうやってフォローするつもり?」
「んー?」
 未冬の前の席に座ってふり向き、頬杖(ほおづえ)をつく。
「先生に見つかっちゃう、とか言って。あとで突っ込まれたらどうするの?」
「大丈夫だよ。先生に、竹原に泣きつけ! って本当に言われたもん」
「は?」
 何を言っているのだろう。
 顔はもちろんだが、声までしっかり嫌そうな響きになった。が、未冬は一向に気にしない。にこにこ笑っている。抱えていたノートその他諸々を机の上に並べ、てのひらで指し示してきた。
 ノート。
 化学の教科書。
 ペンケースは何も問題ない。
 問題なのは、広げられている薄い紙だった。
 ついこの間の期末テストの、化学の答案用紙。
「……すっご……なに、この点数」
「化学、苦手なの」
 それでももう少しなんとかなりそうな気がするが。
 思わず答案用紙を手に取り、まじまじと見つめてしまう。
 竹原に泣きつけ、と言われたわけだ。凪は化学と数学なら学年でも上位に入る。
 教師が凪を(すす)めたのなら、突っ込まれても誤魔化せそうだ。
「追試?」
「うん」
「まあ、助けてもらったしね……」
 はあ、と大きく息をつきながら言う。面倒くさそうな物言いだったにもかかわらず、未冬の表情がぱっと明るくなった。
「教えてくれるの?」
「いいよ。でも、僕、短気だから。そもそも教えるのには向いてないって思っておいてね。言い方もきついよ」
「うん、いいの。ありがとう!」
 あまりにも嬉しそうな笑顔だから、不思議に思った。
「教えてくれる友だちいないの? 僕じゃあるまいし、友だちのひとりくらいいるでしょ?」
「英語ならいるけど、その子も化学は苦手なんだ」
 つまり、ひとりしかいないという意味か。
 未冬の笑みは、先ほどの笑顔とはまったく違うものだった。あんなに嬉しそうに笑ったあとで、今にも泣きそうな笑顔をする。
 寂しいのだろうな、と思った。
 彼女に自覚があるのかはわからない。でも、凪は、未冬の笑顔を見て、寂しい気持ちがあるのだろうと思った。邪推(じゃすい)かもしれないが、そういう表情には心当たりがある。
 未冬の指先が、居心地悪げに答案用紙を(もてあそ)んでいた。
「どこがわかってないのか、自分でわかる?」
 彼女について真剣に考えている自分に気づいて、凪は内心で自分を馬鹿にした。
 非情な会話の切り替え方にも、罪悪感は抱かなかった。どうせ今回限りの関係だ。一度助けてもらったから、その恩を返すだけ。それが終われば、どの席に座っているのかも知らない、挨拶を交わすタイミングにさえ出会わないクラスメイトに戻る。
 だから、未冬の友だち事情なんて、どうでもよかった。



 夏は嫌いだ。陽灼(ひや)けが気になる。冬に陽灼けをしないわけではないが、意識の上で天と地ほどの差があるのだ。
 凪は自己愛が特別強いわけではなかった。ただ、自分が、男であるにもかかわらず美少女と持て(はや)される顔立ちだと知っているだけだ。そして、劣化させればさせたぶんだけ、自分勝手にコンプレックスを(こじ)らせた女がかえってヒステリックになることもわかっていた。
 だから、せめて少年期くらいは美少女でいてやれと思っている。
 これからのことなど知らない。たとえば帰りがけに事故に遭って顔に一生消えない傷が残ったとしても、まったく構わなかった。
 冷房のために窓も扉も閉めきっているせいか、(せみ)の声はない。真っ昼間の、もっとも暑い時間だからかもしれない。蝉だって休む。
 ここに来るまでに見た逃げ水も、今はどこにあるのかすらわからない。
 ふ、と溜息をつく。と、向かいの席から(ひそ)やかな笑んだ声が聞こえた。
「なに?」
 頬杖をほどいて、窓の外に遣っていた視線を移動させた。
 凪の向かいに座る秀一郎(しゅういちろう)は、夏など知りませんという格好だ。休日だというのに(のり)のきいた白いシャツをきっちりと着、浅いブルーのネクタイを締めている。ジャケットも当然のように持っていた。
 ネクタイを緩める素振りも見せない。
「いや。君は相変わらず、憂鬱(ゆううつ)そうな横顔が魅力的だと思ってね」
「……ありがと」
 まだ三十代の半ばにも届いていないが、それにしても秀一郎は実年齢より若く見える。大学生だといわれても疑いようのない容貌だ。黒い髪を整えて後ろに流すことで、なんとか外見年齢を引き上げていた。
 かたちのよい眉が凛々(りり)しいが、くちもとの印象がやわらかいためか、精悍(せいかん)さよりも温厚さが勝っている。性格が(にじ)んでいるからこその穏やかさでもあった。
 メロンソーダに浮かぶバニラアイスをスプーンでつつく。食べる気にはなれない。中途半端に溶けているのが気持ち悪いのだ。
 それなのにいつも同じオーダーをしてしまうのは、秀一郎がそれを望んでいると知っているからだった。
 秀一郎は、凪が退屈そうにしている姿を好む。
 つまらなそうにぼんやりと遠くを見て、人待ち顔で唇を尖らせて、手持無沙汰(てもちぶさた)でアイスクリームをつつく。そんな凪がとても好きなのだという。笑顔を忘れた、花の(かげ)のような凪の横顔がとても好きなのだと。
 ――やりたくなるって素直に言えばいいのに。
 とは思うが、そういったことをけして口にしない秀一郎の潔癖さが好きだった。素直じゃないところがかわいいという余裕からではない。可能な限り凪を尊重しようとしているとわかるから好きなのだ。
 秀一郎は凪に負い目がある。それが彼から男の身勝手さを奪っていた。
 彼は、凪を金で買っていると思っているのだ。
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