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 馬鹿にしないでよねと思う。たかだかデートと、金額にして五桁するプレゼントくらいで、誰が好んで男に抱かれると思うのだろう。凪が、それこそ女子高校生なら価値は或いは大きく変わってくるのかもしれない。そもそもスタート地点からして大きく異なるが、そう、凪だって男なのだ。
 秀一郎に()れているとは思わないが、好意以上のものは抱いている。
 でも、それを口に出そうとは思わない。
 秀一郎が凪を買っていると思っているうちは、凪も秀一郎の恋を受け取るつもりはさらさらなかった。だからこそ、凪は秀一郎のデートをつまらない顔で受けるし、プレゼントも断らない。
 凪の部屋には、行き場のない、金額にして五桁の恋文(こいぶみ)累積(るいせき)している。
 想いを寄せている相手がまだ高校生の少年だということに負い目を感じているのはわかっていたが、凪には、だからなんなのとしか感じられなかった。
 想いだけですべてを越えられると信じられる。それは若さだ。
 凪がまだ間違いなく少年で、幼さが抜けきっていないという証拠だった。
「最近、いつ()っても心ここにあらずといった感じだね」
「そういう僕が好きなんじゃないの?」
 つっけんどんに返す。
 冷房でよく冷えた喫茶店の中で、自分たちはどのような関係に見えているのだろう。
 無意識に制服のネクタイに触れた。
 赤いネクタイにクリーム色のサマーニットのベストは、近辺ではトップクラスの進学校の生徒の証だ。それが、如何(いか)にも優良企業の有能なサラリーマンと、日中から喫茶店で差し向かいで座っているだなんて。
 我ながらよくも(うわさ)にならないものだと思う。とはいえ、先日すったもんだがあったばかりだ。逢う場所をもっと変えた方がいいかもしれない。服装も制服のままではまずいだろう。
 ――なんで気づかないかなあ。
 ばれたら困る関係なのに、凪が制服で来ること。
 着替える暇も()しいと、全身で伝えているようなものなのに。
 秀一郎が(かす)かに笑う。
 今日、一度も目を合わせていない。
 なんとなく予感はしている。
「今までは、心ここにあらずという顔を僕のために見せてくれていたけど、最近は本当に心がここにない」
 気づく順番が違うでしょ、とは、もう言えなかった。
「凪。逢うのは今日で最後にしよう」
「……いいよ。これからどうする?」
 もう、メロンソーダをオーダーすることはなくなるのだ。退屈そうにアイスクリームをつつく必要もなくなる。
 ほとんど減っていないメロンソーダのグラスは夏の(しずく)にそぼ濡れて、乳白色の四角いペーパーコースターに染みをつくっていた。
 コースターにプリントされている喫茶店の名前を見ることも、もうなくなる。
 立ち上がって(かばん)を肩にかけた。秀一郎も立ち上がる。アイスコーヒーのグラスはきれいに飲み干されていた。
「駅まで送っていくよ」
 微笑とともに放たれた秀一郎の言葉の残酷さに、凪は震えた。
 突き放された動揺を悟られないよう、そっと目を()らす。
「……そう。ありがと」
 どうして気づかなかったのだろう。
 凪と逢うとき、秀一郎はコーヒーを飲んだことなどなかった。今日は最初からいつもと違う逢瀬だったのだ。
 帰宅したらすぐ、部屋に累積している金額にして五桁の恋文をすべて捨てることにした。



 例の、どこの誰だか知らないが、とにかくうるさく喚く女生徒の恋人を寝取った――誤解を解かなかった因果応報とは思わない。秀一郎との関係は、遅かれ早かれこうなっていたのだ。お互いになんの屈託(くったく)もなく恋人同士になれるなどという甘い幻想は、一瞬たりとも見たことがなかった。
 涙を見せる気にはなれなかった。
 だから来た別れなのだろう。
 せめて凪が刹那(せつな)でも夢を見ていたら、嘘でも涙を(こぼ)してみせれば、秀一郎は恋として明確に踏み込んだかもしれない。
 けれど、それすらもう泡沫(うたかた)だ。
「おっ、竹原くん! 教室にいるんじゃん」
 探していた、というニュアンスを含んだ声に呼ばれ、凪は物憂(ものう)げに顔を上げた。
 すらりと背の高い女生徒だった。この暑いのに髪をまとめることもせず、背中まである髪をそのまま揺らしている。
 ――これは同級生だな。
 なんだかわからないけれども、年の差から来る遠慮が感じられない。だから凪もいつものように応えることにした。
「君、誰?」
 未冬にしたのと同じ質問を投げる。女生徒は呆れた様子を隠しもしなかった。
蛍原(ほとはら)和歌子(わかこ)、未冬と同じくあなたと同じクラスです。三分の一も覚えてないんだっけ?」
 少しだけ西の(なま)りが(うかが)える口調で名乗って、和歌子は凪が着いている席の前に座った。それからくるりとふり向く。
 夏の校舎は明るいようで暗い。午後の、影の濃い時間ならなおさらだ。窓辺は陽が当たっているが、寄りつく気にはなれなかった。焼けつくのは御免(ごめん)だ。
「なんでそこに座るわけ?」
 眉を顰めて言うのに、和歌子はまったく(こた)えていないようだった。そればかりか、凪の机に身を乗り出して頬杖までつく。
「いいじゃん。原っぱ同士仲良くしようよ」
 つい先ほどまで呆れさせてきた顔を一変させて、和歌子はややきつい印象の目もとをやわらかくした。それと知らなければ気づけない絶妙な手際と加減でマスカラを使っている。さすがに女の目は誤魔化(ごまか)せないだろうが、男性教諭であればすっぴんを疑わないだろう。
 凪はさらに眉根を寄せた。
「原っぱ同士? なにそれ」
「竹原と蛍原で、原っぱ同士」
「馬鹿じゃないの?」
「よく言われる」
 和歌子は凪のすげない反応にもめげず、悪びれることもない。未冬はまだ遠慮があったが、和歌子の距離の詰め方は清々(すがすが)しいほど厚かましかった。ここまで図々しいと腹を立てる気にもならない。(いさぎよ)ささえ感じてしまう。
「未冬、待ってくれてるんだよね?」
 確信した問い方に、凪は少しだけ苛立(いらだ)った。
「どうせ抜き打ちになってない抜き打ち小テストが来るでしょ」
 化学の授業の話だ。
 化学を受け持っている教師は、期末が終わり、夏休みももう間近という日にちになって思い出したように小テストを出す。五問ほどだが、とにかく質問内容がいやらしい。中間、期末試験ではそのようなことはないから、教師の()さ晴らしとしか思えなかった。
 点数が低くても成績には直接影響しないところだけはありがたいが、ちくりとした厭味程度は喰らう羽目(はめ)になる。
 溜息をつきながらの言葉だったのに、和歌子はにんまりと笑った。
「ちゃんと面倒見てくれてるんだよねぇ」
「そういうわけじゃないけど。……英語はできるけど化学ができないのって君?」
 ほかに選択肢が思いつかない。和歌子が苦笑して頷いた。
「ご明察(めいさつ)で。英語は小さい頃からいい感じに覚えられたからいいんだけど、化学とかそういうのはちょっと」
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