七月 嘘泣き上手のゼロ地点  |  next   
八月

くらげが骨に出会うとき






 とりあえず異性愛者に限定しておいて。
 ひとは、同性に対し恋愛感情に酷似(こくじ)した強い(あこが)れを抱くことで、恋の予行練習をするらしい。
 それを聞いたとき、私はものすごく危機感を覚えた。
 私はこの先恋することができるのだろうかと、本気で不安になった。
 強い憧れを抱いているわけではないけれど、私の(そば)にいる友人が、あまりにもきれいだからだ。
 涼しい図書館で夏休みの宿題を少しずつ、かつ確実に片付けていきながら、私は向かいに座って黙々と読書している友人を見遣(みや)った。私の視線には気づいていないらしい。椿(つばき)が本のページをぱらりと(めく)った。
 ――美人なんだよなあ。
 実際のところ、椿の美しさは美人程度の言葉では間に合わない。彼女の美は現実離れしている。
 光の下では天使の輪ができる、濡れれば(つや)めきを増す肩までのやわらかな黒い髪に、扇みたいな長い(まつげ)。黒目がちで、白目の部分が少し(あお)みがかっているから赤ちゃんみたいだ。切れ長の目は鋭い印象だけれど、ふっくらと色づいたさくらんぼのような唇のために、雰囲気はやわらかくなっている。
 白い肌は陽灼(ひや)け知らずの荒れ知らず。白磁(はくじ)みたいにつるりとしていて、触るととてもやわらかい。
 身長もすらりと高く、バランスもいい。大きくはないけれど小さすぎもしない胸が、美を収斂(しゅうれん)させた像のようだった。健やかな足もかたちよく長い。
 学校指定のそっけない水着でも圧倒的だったのだ。おしゃれに特化した水着を着るとどうなるのか、興味はあるけれど、怖くもあった。
 今は本を持っている手も白粉(おしろい)(はた)いたように白く、指先は繊細で、爪なんか桃色の貝殻(かいがら)を磨いたみたいだ。これが素だというのだからすごい。たとえ私が一晩かけてかたちを整え、マニキュアを塗ったとしても、こんなふうにはならない。
 漫画も小説も超越してしまっているとしか思えない美貌(びぼう)だから、嫉妬のしの字も湧かなかった。アフロディーテと並ばされて比較され、アフロディーテの方が美人だと言われても傷つかないのと同じだ。むしろ、当たり前でしょ何言ってんの? となる。
 ほかのひとがどうなのかなんて知る(よし)もなかったけれど、とにかく、私にとって椿は嫉妬の対象ではなかった。
 夏休みに入って、七月分が終わった。椿はとっくに宿題を終わらせてしまっている。彼女はおつむの出来も素晴らしく、テストの成績も、中間、期末と五位以内に収まっていた。
 別の高校に進んだという双子の弟もそれはもうすごいらしいのだけれど、椿を見れば疑いようもない。
 一年の夏休みは受験は遠い。補習があるわけでもない私はのんびりしている。部活も文化部――というか同好会で部ですらないから、のんびり具合はマッハだった。
 日中の暑い時間、私は図書館で宿題をする。中学生のときから続けていることだった。
 先生に褒められる真面目さがあるというわけではない。図書館の方が集中できるから宿題が片付くのが早く、片付いてしまえばあとは好きに過ごせる。それに味を()めたのだ。しかも、お金もかからない。
 私はいつも朝一番で図書館に入り、陽が落ちて少し気温が落ち着いてから家に帰る。
 大抵七月中に宿題は終わるのだけれど、今年は冒頭の悩みとも呼べない悩みが頭の中を駆け回って、まったく集中できないままに時間だけが過ぎていった。
 重傷だと思う。
 それこそ恋をしているみたいだ。
理子(りこ)ちゃん」
 ひそっと呼びかけられ、心臓が跳び上がった。私はばくばくする鼓動を(おさ)えつけながら、いつもの顔で笑う。
「ごめんね、退屈?」
 ひそっと返す。
 椿はふるりと首を横に振った。外見はものすごく美人なのだけれど、彼女の内面はかわいらしい。美人を目当てに憧れた女子が幻滅する程度にはかわいかった。
「退屈じゃない。理子ちゃん、おなか減らない? お昼だよ。わたし、何か買ってこようか」
「お遣いに行ってくれるの?」
「うん!」
 満面の笑みで(うなず)く。かわいい。
「じゃあ、おにぎり。(しゃけ)昆布(こんぶ)と焼きたらこ。お茶は麦茶で。常温のやつ。お金あとでいい?」
「うん、わかった。買ってくる」
「ちゃんと車に気をつけてよ?」
「わかった」
 馬鹿にして言っているのではない。私は本気で心配している。彼女は少しぽやっとしているところがあるのだ。
 椿は素直に返事をして、私に手を振って近くのコンビニにお遣いに出ていった。



 椿との縁ができたのは、今年の春先だった。まだクラスのみんなが椿を遠巻きに眺めて、ざわざわどきどきしていた頃のことだ。
 黙っていれば人形だって目じゃない椿の横顔はこれ以上なく神秘的で、長い睫や、少し寂しそうにも見える目もとが(ひそ)やかにきらめいて見えるほどだった。
 そんな外見だから、どうにもお近づきにはなりにくい。話しかけづらかった。
 一方椿はというと、ひとりでいることが苦ではないのか、目もとの印象とは違ってまったく寂しそうにしない。大抵早朝から教室にいて、いつも本を読んでいた。
 休み時間も本を読んでいる。お弁当もひとりで食べて、終わると本を読む。
 本のページを捲り、文字を追う伏せた睫が眠り姫みたいにきれいで、余計に誰も話しかけられない。
 私が椿の友人第一号になってしまったのは、偶然だった。
 昼休みに背後でかつんと音がして、友人とお弁当を食べていた私はふり向いた。椿が後ろにいるのはなかなかのどきどきもので、私はいつも、無関心を(よそお)って気にしていたのだ。
 椿の姿がなかった。
 と思ったら、机の下に屈み込んでいたらしい。手には(はし)を持っていた。
 どうやら、箸を取り落としてしまったらしかった。
 (かばん)の中をごそごそしている。もしや箸に代わるものを探しているのだろうか。私は気づいたら、
 ――購買に割り箸売ってるよ。
 そう言っていた。話しかけたのは、それがはじめてだった。一緒にお弁当を食べていた友人が息を呑んだのが、気配でわかった。
 ――そうなんだ。ありがとう。
 椿の声は楽器みたいに美しかった。正面から受け止めた彼女の微笑は安堵(あんど)(あふ)れていて、いつも寂しそうな目もとがあたたかく緩んでいる。(ほが)らかな、やさしい笑みだった。
 私は赤面した。
 女の子相手でも赤面することがあるのだと知ったのも、そのときがはじめてだった。
 それから椿はまた鞄をごそごそして、……ごそごそして、
 ………………ごそごそして、
 ――どうしたの?
 ――お財布がないみたいなの。
 (こら)えきれず、私は笑ってしまった。美貌を持て余した物言いだったからだ。
 ――貸してあげるよ。割り箸、二円で買えるから。
 財布から二円取り出して椿に手渡したときの、あの笑顔。
 形容なんてできない。
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