back  |  next   
 椿の隣は似合わない。
「そういうのもあるんじゃねーの?」
「無関心だなあ」
「しょうがねえじゃん、興味ねーもん」
 私はまた机に突っ伏した。
 机はぬるい。
 視聴覚室だから空調機はしっかりついているのに、使用は認められていない。私たちは教室の窓をすべて全開にしてテーブルゲームに(きょう)じる。
 広い教室は夏の空の真っ白な(まぶ)しさとは正反対に、暗く静かで落ち着いていた。
 将棋の駒のぱちりぱちりという音や、かちかち貝殻がぶつかり合うみたいな碁石の音、大切に受け継がれている質のいいトランプを切る音だけが耳に近い。
 白昼夢の懐かしさと親しい蝉時雨(せみしぐれ)が絶えない。風は生ぬるく、空が青く抜けている。大きな木のおかげで窓辺の席も日陰だけど、登校の際に盛り上がっていた入道雲は見えなかった。
 古い校舎の壁ですら輝く夏の日。



 私は結局スニーカーを優先し、それに合う服を部屋でとっ替えひっ替えして選んだ。電車の中で爪が剥がれて病院送りになってしまったら、一夏丸々潰れてしまいそうだ。せっかくの夏休みなのに、それでは意味がない。
 部屋でばたばたしていたから、兄に(やかま)しいと(しか)られ、弟には「姉ちゃんデート?」とからかわれた。私は否定しなかったけれど、肯定もできなかった。
 私は駅の構内に入ると、お手洗いに行った。ハンカチで汗を(ぬぐ)って、昨日(そろ)える程度に切ったばかりの短い髪を()く。晴れてくれたのは嬉しいのだけれど、朝から容赦のない気温の上がりっぷりに、私の肌はもう火照(ほて)っていた。
 赤くなった顔を見られるのが嫌で、かなり早く家を出てきたのだ。お手洗いを出て自販機で清涼飲料水を買い、身体の内側を冷やす。よし、と気合を入れて、待ち合わせ場所の改札口に向かった。
 知らず、自然に早足になる。
 ――やだな。
 ほんとに恋してるみたい。
 まだしたことないのに。
 恋をしたら、こうなるのだろうか。
 予行練習にしてはリアルだ。だって、私はすぐに椿を見つけられる。
 彼女が美人だからではない。道行くひとがふり向いているからではない。ただ、そこに椿がいるのだということが、何故かわかってしまう。どんな人混みの中にあっても。
 ――椿はどうなのかな。
 彼女も、私が椿を見つけられるように、私を見つけてくれるだろうか。
 私のきれいな友人は、夏休みで忙しい駅の改札口にいた。
 雑多な風景なのに、高貴な絵画みたいだ。
 にっこり笑って手を振ってくれる。私はくすりと笑って小走りに駆け寄った。
「椿、早いね。暑いのにごめんね。待った?」
 ――夏が終わらなければいいのに。
 このまま、八月の真夏のままならいい。
 ずっと夏休みなら、図書館でふたりきりで会える。ひそひそと(ささや)き合って、くだらないことで笑い合える。
 ひとり占めできる。
 椿の格好は至ってシンプルだった。Tシャツにデニム。デニムはスカートではなくて、パンツスタイルだったけれど。
 なんでもない格好なのに、これ以上はないと思ってしまう。
「待ってない。理子ちゃんかわいい。アクセサリーつけてるところはじめて見たよ」
 水族館ということで、貝が熱帯魚のかたちにカットされているブレスレットをつけてみた。椿は相変わらずアクセサリーをひとつもつけていない。いつもそんなだから、興味がないのだとばかり思っていた。
 気づいてもらえるとは思っていなかったので、かあっ、と(ほほ)が熱くなる。
「水族館だから」
「うん。髪切ったんだね。似合うよ」
「……ありがと」
 こういうところに敏感に気づくのは、さすが女の子だなあと思う。
「スカートなのも珍しい」
「……そうだっけ」
 俯きがちに目を()らして、私は(とぼ)けた。
 ――意外。椿って結構見てるんだ。
「かわいい理子ちゃんと水族館デート。うれしいなあ」
 早く行こうと言う無邪気な笑顔は美貌をさらに眩しくさせているけれど。
 私の胸には少し痛い。
 だって、椿がこれからの人生で本当にデートするのは、私じゃないんだもの。



 椿はくらげにご執心だった。
 個人的には、鮮やかな熱帯魚をうっとり眺めていてほしい。
 水族館の中は、真夏の陽射しも無関係に暗くて冷たい。先ほどまで灼熱(しゃくねつ)に焼かれ、青い空に目を(すが)めて、風に揺れる濃い緑の残像を視線の端で追いかけていたのに。
 水族館に一歩足を踏み入れただけで、世界は無責任なほど簡単に変わってしまった。
 水槽(すいそう)から(こぼ)れて揺らめく青い水の陰影が、椿の白い(おもて)幽玄(ゆうげん)に浮かび上がらせている。
 生き物ではないみたいだ。
 同じ人間とは思えない。
 水族館は空いているとは言えなかったけれど、不思議に静まっている。ひとのさざめく声や物音が、潮騒(しおさい)みたいに鼓膜の奥に広がっていた。
 とりあえず一周してから、「イルカのショー見たい?」と尋ねたところ、椿は「もう一回くらげ見たい」と言った。
 私たちは大きな水槽の中でふわふわしているくらげを眺めている。
 正しくは、椿はくらげを。私は、くらげを見つめる椿の横顔を。
 深い青の中でぼんやり白く光りながら漂うくらげは優美(ゆうび)と言えなくもないけれど、そこまで関心を()かれる魅力があるようには思えない。
 イルカのショータイムだからか、くらげの水槽前にひとは(まば)らだ。
 海に()瑞々(みずみず)しい紙風船が、ふわりふわりと行ったり来たり。眠りたくなる夢心地。
「理子ちゃん、くらげってなんで骨がないのか知ってる? 昔話にあるの、読んだことある?」
 突然くるりと私の方を向いて、椿が言った。
 椿の頬が蒼白(あおじろ)く揺れている。
 水族館の人工的な冷気。青い暗がりと水の気配。
 焼けつくような八月が遠い。(せみ)の声も、入道雲の純白も、ここまでは届かない。
 くぐもる声で、私は否定した。
 back  |  next



 index