back  |  九月 呑めぬお前と知りつつ差して   
「たぶん読んだことはあると思うけど、忘れちゃった。どんなだっけ」
「病気の乙姫(おとひめ)様を治すのに猿の(きも)が必要だったの」
「いきなり不穏(ふおん)だな」
 ――病気の乙姫様。
 ()(おとろ)えても、きっと彼女は美しかったのだろう。病の悲劇のために、じりじりと短くなっていく乙女の命の最期(さいご)に向かう輝きのために、(つね)よりなお一層美しかったかもしれない。
 でも、椿の美貌には遠く及ばないに違いなかった。
 そう思ってしまうのは、私が見ているのが乙姫様ではなく、椿だからだ。ほかの誰でもない、椿だから。
「その頃はまだくらげにも骨があったんだよ。くらげは猿の肝を取ろうとして竜宮城に招いたんだけど、猿はくらげの奸計(かんけい)に気づいて――うん……、奸計っていうほどじゃなかったのかも。肝は木に干してあるっていう猿の言葉を信じたんだから。ちょっと抜けてるとこがあったのね」
 椿はくすっと笑った。
 くらげの前でいきなりそんな話をしはじめて、なんなのだろう。
「肝は木に干してある、このままじゃ(からす)に食べられるから戻ろうって言われて、くらげは猿を陸に連れていって、まあ当然計画は失敗なわけで。馬鹿にされてがっかりして帰ったら、今度は乙姫様のお父さんの竜王様が激怒して、くらげは罰として骨を抜かれちゃったの」
「椿」
 これは、乙女の勘。
 恋する乙女の勘じゃない。
 ただの乙女の勘。
 だけど。
 ――やっぱり、私の予行練習の相手は、椿なんだ。
 誰にも似ていない、きれいな友人。
「ふられたの?」
 えへ。と、椿は笑った。
「いやあ、見事に玉砕(ぎょくさい)しました」
 悪戯(いたずら)が失敗したときのような情けない笑みを浮かべ、椿は冗談っぽく後ろ頭を()いた。
「え、……え。椿が? なんで?」
「なんでも何も、わたしの片想いだったから」
 そういう意味ではない。
 椿はふる側であって、ふられる側ではない。
 あれほど、あんなひとは椿の隣は似合わないと思っていたのに。ふたりが並ばないのは私の理想を(けが)されない、言ってしまえば歓迎することなのに、私は喜べなかった。
 椿が曖昧(あいまい)な笑みで視線をつま先に落とす。
「わたしがきれいだからだって。君みたいなきれいな子は、僕みたいなおじさんにはもったいないよって言われちゃった」
 大きな青い水槽で、白いくらげがふわふわしている。
「ひどい文句だよねえ。好きでこんな顔に生まれたわけじゃないもん」
「……うん。それは……確かに、椿のせいじゃないね」
 美貌のひとは損だ。
 ちょっと美人とか、美人ではなく、誰にも似ていないと思わせるほどの美貌は損だ。
 自分が望んだものが手に入るよりも、奪われ、失われるものの方が多い。何をしなくても、ただそこにいるだけで失われていくものがある。
 傾国(けいこく)の美女という言葉に表されるほど。
「でも、適当に話合わせるってことしなかったんだから、……ふり文句にセンスはないけど、やっぱりやさしいひとだったよ」
「なんで泣かないのよ」
 椿みたいな子が練習相手だなんて、ひどい。
 神様、私に恋させる気あるの?
 残酷すぎるでしょ。
 こんなきれいな子、世界中探したってほかにいるわけないじゃない。今後の人生、どんなひとに()れろっていうのよ?
 椿がくすぐったそうに笑った。
「くらげ見てたらすっきりしちゃった」
「なにそれ」
 波間(なみま)に遊ぶ海の紙風船。
 透明で瑞々しい、ちょっと間抜けなお遣い。
 骨を抜かれて、今日もふわふわ揺れている。
「失恋したからって死ぬわけじゃないもん。平気だよ。まだまだ若いし、人生長いんだから」
 私に背を向け、水槽にきれいな顔を近づけて、椿が言った。
「わたしも骨に会うときが、きっと来る」
「……」
 それは、どこにあるのかわからない。本当にあるのかもわからない。見たことだってない。
 もしかしたら、一生涯(いっしょうがい)会えないままかもしれない。
 くらげの骨は夢みたい。
 ――でも、きっと、会えるって信じるのが人生なんだ。
 そうでなければ寂しいままだ。信じることすらやめてしまったら、もしすれ違っても気づけないかもしれない。
「……そっか」
 椿が、彼女の美貌を怖がらないひとに出会う日が、いつか。
 私が予行練習を終える日が、いつか。
 その予感と確信は、少しばかり寂しいものではあるのだけれど。
「うん。そうだよね。人生長いんだ」
 どうしたって仲良くなれないひととも出会うだろうけれど、それなら運命の相手とだってきっと出逢(であ)える。
 なんだか清々(せいせい)した気持ちで、私は深く呼吸した。
 すっかり忘れていた。真夏なんて一瞬で過ぎ去る時間の代名詞だ。特に、夏休みなんて一秒もない。
 十年後、今日を思い出したとき、私は椿とのくらげの遣り取りを刹那の輝きだと感じるかもしれない。
 そのとき、私の隣には、椿ではない誰かがいるのかもしれなかった。
 今はまだ想像もできないけれど、夏はどんどん過ぎていく。大体、予行練習にしたって、私はとうにふられているのだ。
 私が椿を目で追っていたとき、椿は図書館の君にときめいていたのだから。
「失恋したって死なないんだもんね」
 椿の言葉を繰り返す。やっぱり、胸は少し痛んだ。
 でも、その痛みさえ甘いから、私は椿と一緒にいられる。
「そうだよ。幸運に逢うどころか、奇跡のひとつやふたつ、簡単に起こしちゃうんだから」
 くらげが揺れる水槽の硝子(がらす)越しに私と目を合わせた美貌の友人は、茶目(ちゃめ)()たっぷりにウインクをした。





END.
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