八月 くらげが骨に出会うとき  |  next   
九月

呑めぬお前と知りつつ差して






「んでね、ほんと馬鹿なのよ! 馬鹿なのよほんとに!」
「まあ、馬鹿か馬鹿じゃないかっていったら、馬鹿のうちに入るかもね」
「選択肢なんか必要ない。馬鹿なのよ!」
 御子柴(みこしば)祥太(しょうた)は今回も彼女の浮気が原因でふられた。
 別れたのではない。
 ふられた。
 別れたには違いないが、内訳(うちわけ)としては浮気されてふられたのだ。気の毒が重なっているわけだが、史香(ふみか)が気に入らないのはその点に関してではなかった。
 今回も、と述べたとおり、彼のこの破局コースはなんら珍しいものではない。ありがたくない実績がある。つまり彼は『浮気をされて別れる羽目(はめ)(おちい)る』恋多き男性なのだが、見方を変えれば、何度裏切られても信じることを諦めない不屈(ふくつ)の根性を持った男性ともいえる。
「でもねえ。そういうのって、男女問わずうまいこと隠すひとは多いから」
 と、五十鈴(いすず)は一応祥太を(かば)った。
 嘘は言っていない。
 あっさり看破(かんぱ)される者も多い中、不貞(ふてい)を隠すのがその道のプロレベルでうまい人間は少なからずいる。そして、そういった人間は、付き合うまでは本当にわからない。付き合ってからでさえ、隠すとなって徹底的に隠されてしまうとわかりづらい。
 とはいえ、人間のすることだからミスは出る。そのミスを見落とさないか、突っ込んで突き詰められるかが人生の分かれ道になる。
「だからって毎回毎回、馬鹿でしょ!」
()りないっていう意味では馬鹿ね」
「女を見る目がないのよ!」
「一理あるけど難しいわねえ」
 誰よりやさしいと思っていた彼氏が、結婚した途端暴力を振るう夫になる。誰より献身的だった彼女が、結婚を機に遊びまわるようになる。
 なんとも哀しい話だが、こちらも少なくないのが現実だ。
 案の定やはり擬態(ぎたい)の完成度は(すさ)まじいのだから、一概に「見る目がない」とは責められない。その一言で決着がつくのなら、結婚詐欺は罰せられずに横行(おうこう)している。
「あんたも毎度毎度、よくも丁寧に怒るわよね」
 溜息(ためいき)をつくようにして言う。と、前を向いていた史香が、ぐりっと勢いよく五十鈴に顔を向けた。
「腹立つのよ! あいつにも腹立つけど、相手の女浮気してるのよ? しかもそれでふってきてるのよ? 何様なのよ!」
「ああうんそれは確かに腹立つわ。暴力反対とは思うけど、心情的には歯ァ食い縛れだわ」
「女見る目なさすぎでしょ!」
 憤懣(ふんまん)()(かた)ないといった調子で、史香は顔をもとに戻した。
 要するにそういうことなのだ。
 史香は、長年の想いびとである祥太が、いつもいつも相手の浮気で別れるという恋愛を愉快に思っていない。
 彼は恋多き男性ではあるけれど、恋人に対して不誠実を働いたことは一切ない。その都度(つど)真摯(しんし)に想いを(そそ)いでいる。その(むく)いが相手の不貞と、一方的に切り出される理不尽な別れなのだから、他人事であれ腹立たしいと思うことに異論はなかった。祥太と特別に仲が良いというわけでもない五十鈴だっていい気はしない。
 史香のいいところは、私に気づいて、という想いから怒っているわけではない部分にあった。
 彼女はこの話題が持ち上がるたび――毎回祥太の相手の女性は違っているが、とにかく結末は同じこの話題になったとき、必ず「あいつは女を見る目がない!」と憤慨(ふんがい)する。祥太と女に対して、ある意味純粋な怒りを持っている。けれども、その中に、「どうして私に気づいて、こっちを見てくれないの?」という不満は含まれていない。
 五十鈴は、史香のそういうところがとても好きだ。
「ま、恋の仕方は色々よね」
 七歳年下の小生意気な幼馴染(おさななじ)みを思い出しながら(つぶや)き、五十鈴は青い江戸(えど)切子(きりこ)の冷酒杯を傾けた。
 静かな夜の縁側だった。
 ふたり並んでの月見酒だ。
 五十鈴と史香の間には、漆塗(うるしぬ)りの盆が置かれている。
 そこには白玉団子が積み上がった皿が載せられ、五十鈴の(かたわ)らには焼酎の一升瓶(いっしょうびん)が堂々と立っていた。下戸(げこ)の史香は、コンビニで買ってきた缶の梅酒だ。
 月のいい夜だ。
 澄み渡って晴れ、あまりにも明るい満月のために、星は見えない。風もない。庭の(すみ)の暗がり、足もとの草陰から、りり、りり、と秋の虫の(はね)の音が断続的に聞こえてくる。
 縁側は乾いて、ひんやりと心地よく冷たい。磨かれている滑らかさと、風雨に(さら)されてきたざらつきが不思議に同居していた。
 りー、りー。
 りり、りり。
 そういえば、これは恋の歌だ。
 切子の(さかずき)を月に(かざ)す。鋭く気風(きっぷ)よく彫り込まれた花が美しい江戸切子の、細工の(ふち)白刃(はくじん)のようにきらめく。
 明日は休日だ。遠慮なく飲める月見で一杯は至福だった。
 普段、市内を巡るワンコインバスの運転士をしている五十鈴は、翌日仕事がある場合、絶対に酒を口にしない。底抜けた柄杓(ひしゃく)の身体の持ち主ではあるけれど、それが五十鈴のけじめと矜持(きょうじ)だった。
「もうなぁ……酔わせて襲おうかなぁ」
 両膝(りょうひざ)(かか)えてしおらしく(うつむ)いていた史香が、良家の子女然としたおとなしい外見にそぐわないとんでもないことを口にした。
 五十鈴は庭に裸足(はだし)を投げ出したまま、
「なんとも穏やかではないわね」
 と言って、飲み干した杯に焼酎を注いだ。
「御子柴くんって下戸だっけ?」
「私をはるかに上回って下戸」
「それ下戸じゃなくてまったく飲めないっていうのよ」
「変わんないよぉ。アレルギーがあるわけじゃないもん」
「急性アルコール中毒になるわよ」
「それはやだ」
「大体犯罪でしょ。芯からの同意じゃなきゃ絶対だめ、そういうことは」
「わかってるよぉ」
「あんたもね、せめて告白してからにしなさいよ」
「なんでかいつも言いそびれるんだもん」
「……史香。酔ってるでしょ」
「酔ってない」
「うん酔ってるわ。それ酔っぱらいの台詞(せりふ)だから」
「酔ってないぃ」
「はいはい」
 適当な相槌(あいづち)を打つ。五十鈴はひとくち大の白玉団子をひとつ(つま)んだ。酒のあてには物足りないが、たまには甘いものも悪くない。
「せっかくこんなに晴れてるのに、下向いてもったいないったらもう。お酒がおいしい」
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