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「この飲兵衛(のんべえ)め……」
 忌々(いまいま)しいといわんばかりの声だったが、気にしない。横目で(にら)まれているけれども、もちろん気にしない。
 いつものことなのだ。
 五十鈴の休日前夜に、史香は律儀(りちぎ)にも「愚痴(ぐち)を聞いてほしい。せっかくのお休みの前の日台無しにして申し訳ないんだけど、聞いてほしい」と電話をかけてくる。放っておけるはずがなかった。
 たとえ内容がいつも同じだとしても、史香にとっては間違いなく深刻で切実なのだ。
 史香は月を見上げることなく、深い重い溜息をついた。両膝を抱え直し、(ひざ)(ひたい)を擦りつけて顔を隠す。
 耳の下の高さできれいに切り(そろ)えられ、少しだけ内に巻いてある彼女の栗色の髪が、月光と夜気(やき)(あお)い。露出している白い(うなじ)が、ぼんやりと浮かび上がっていた。
 祥太について、五十鈴はほとんど何も知らない。高校が同じだった、それだけの関係だ。彼とは三年間一度も同じクラスになったことはなかったし、選択授業も別で、委員会や部活での関わりもない。一応お互い認識はしているものの、親しく話し交わすような間柄ではなかった。史香がいなければ、五十鈴は祥太が存在することも知らないままだっただろう。
 肝心(かんじん)の史香と祥太はというと、中学時代からの付き合いらしかった。史香がいつから彼に特別な想いを寄せるようになったのか、五十鈴は未だに知らない。話題に上ったこともなかった。
 震える吐息を繰り返す友人の、()瀬無(せな)い恋心に揺れる細い肩を眺めて、五十鈴は酒杯を()けた。
 青い江戸切子に新しく酒を注ぎ入れる。
 とくとくと、(かす)かな鼓動のような音が鳴る。
 秋の虫の翅の音。
 素足のつま先が冷たい。
「……月が綺麗ですね」
 月光と秋の音を(さえぎ)ってしまわないよう、静かに口にした。
 史香がゆっくりと顔を上げる。
 緩く首を(めぐ)らせた友人が首を傾げたのを見て、五十鈴は小さく笑った。
「これなら言えるんじゃない?」
 有名な一言だった。
 それでも、知らなければ伝わらない。
 それなら、言ってみるのはひとつの手だ。
 史香は、五十鈴を見、月を見、もう一度五十鈴を見て、すっと視線を()らした。
 その視線の逸らし方は、初恋に胸をときめかせる少女の純真と、届けられない想いに身を()がす大人の女性のもどかしさが混在したものだった。
「……言えない」
 いつまでも来ない待ち人を待つ、酒気(しゅき)を帯びてほんのりと赤らんだ目尻が美しい。心細げに震える(まつげ)は頼りなく、(うる)んだ瞳は寂しげだ。
 伝えたいのに伝えられない想いの言葉が、(ひそ)やかに唇を(いろど)っている。
 五十鈴はふっと微笑を()らして、冷酒杯に口をつけた。
 五十鈴もわかっていた。
 ほかにどうしようもなかったから、言ってみただけだ。
 (まぶた)を伏せる。
「それが、恋なのよね」
 本当の恋だから。
 だから、言えない。
「お酒の席なら用意するわよ」
「五十鈴さあ、さっきだめって言ったじゃないよ」
「襲うなっつったの。そうじゃなくて」
 ふふ、と笑う。史香は怪訝(けげん)そうな顔をした。
「飲めないって知ってる相手が、自分にお酒を(すす)めてくるのよ?」
 理解したらしい。史香が、今日、はじめて笑みを(こぼ)した。
「下心、()けて見えると思う?」
 (こら)えきれず、五十鈴はくすくす笑い出した。
「うん、思う」
「私、そういや今まで怒ってばっかりだったわ」
「史香のいいとこよ」
「五十鈴は? 怒らない? こういうの」
「怒るっていうのはちょっと違うわね。あんまりにも寝惚(ねぼ)けたことばっかぬかしてたら、味噌汁で(つら)洗って出直してこいやと思うだけ」
「怖いわー」
 史香が声を立てて笑いながら、身体をわざとらしく震わせた。それから、ふと口を(つぐ)んだかと思ったら、
「……でも、下心の上にお酒注ぐなんて外道(げどう)下劣(げれつ)じゃない?」
 史香はやっぱり律儀で真面目だ。
 もしかしたら、祥太には本当に女性を見る目がないのかもしれない。
「使い方を間違えればただの下衆(げす)よね。でも史香、忘れてるんじゃないの?」
 青い江戸切子に焼酎をなみなみ(そそ)いで、顔の高さまで持ち上げる。杯を揺らし、中の酒をゆるりと回した。
「恋って、『こころ』の上に成り立ってるのよ」
 五十鈴がウインクすると、史香は(わず)かばかり動きを止めてから、なんとも情けない様子でふにゃりと笑った。
「そういえば、あんた国語の教員免許? 持ってたよねえ」
「持ってるだけだけどね」
 今後使う予定も一切ない。
「いやあ、さっきの先生っぽかったよ。飲兵衛だけど」
「教師と飲兵衛は無関係でしょうが」
 五十鈴の苦笑を無視して、史香は胸を開いて笑った。
「そうっかあ。下心あっていいんだぁ」
 その声が、表情があまりにも晴れ晴れとしていたので、五十鈴の気持ちも明るくなった。
「そもそもあるもんなのよ」
「だぁよねぇえ。怒ってて忘れてた。ちゃんと透かして見てくれるかなあ」
「そぉれはどうだかなあ」
 五十鈴が無責任に笑ってくれるのが嬉しくて、史香はやっと、心をこめて空を見上げることができた。
 天高く、満月が煌々(こうこう)と輝いている。
 史香は五十鈴に聞こえないよう、小さな声で呟いた。

「月が綺麗ですね」





END.
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