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 でもきっと、久我くんが贈ってくれる花一輪の価値をわかってくれる子なのだろう。
(うらや)ましいなあ……」
 はああ、と深い大きい溜息をつく。
 お客様はとうに()けてしまっている。だからといってこんなふうにおしゃべりしていていいわけもないのだけれど、今日の私はナイーブでナーバスなのだ。
 久我くんは、眼鏡の奥の瞳をぱしぱしさせた。
「どちらが羨ましいんですか?」
「ええ?」
 どっちって、何が。
 腰が痛くなってきた。カウンターも冷たい。陽はもう暮れて、ショートヘアの私は(うなじ)が寒かった。
 のろのろと立ち上がり、腰に手を当てて胸を張るようにして背をほぐす。いつの間にか冷えて硬くなっていた筋肉がぐんと伸びて、気持ちがいい。
「花を贈る僕と、贈られる……彼女と、どちらが羨ましいんですか?」
 だからその間はなんなのよ。
 それにしても、
「ヤなこと()くなあ」
 今日の私はナイーブでナーバスなのに。久我くんは何も悪くないけども。
「遠野さん。寒くありませんか」
 思っていたら、久我くんは唐突に話を変えた。私はすぐにはついて行けず、眉を寄せる。
「んん?」
「半袖じゃ寒いでしょう。冷えますよ。もう上がるんでしたよね?」
「うん」
 確かに私はもう上がりだ。確信していた問い方だったから、知っていたのだろう。そんなことまで把握しているのか。店長の覚えもめでたいわけだ。
「お飲み物は何がお好きですか。外の自販機にあるものでお願いします。……おすすめはあたたかいものです」
 静かな、やさしい声だった。穏やかな微笑が、とてもきれいだった。
 ……なんでこのタイミングでそんなこと言って、そんなふうに笑うのよ。
 私はなんだか悔しくなる。ついでに泣きたくなる。だって、ナイーブでナーバスなのだ。
 そんな日に、開いたばかりの花びらに触れるみたいなやわらかさでやさしくされたら、涙腺(るいせん)が緩くなってしまう。本当は昨夜泣くはずだったのだ。結局泣けないままだったのだから、涙はもう、(あふ)れないのが不思議なほど溜まっている。表面(ひょうめん)張力(ちょうりょく)に完全に頼りきっている状態だった。
「……お汁粉(しるこ)
 景色が暗い。風が冷たい。
 敷地内に明かりが(とも)っている。
 久我くんは、またやさしく微笑んだ。
「自販機のところでお待ちしています」



 久我くんが買ってくれたお汁粉。
 缶を二、三度右手と左手の間を往復させて少し冷ます。
 私と久我くんは、すっかり陽の落ちた十月の空の下で、自販機の隣に置かれたベンチに並んで座っていた。
「開けましょうか」
 大きなてのひらを差し出される。意味がわからず、私は首を傾げた。
「爪が傷つくでしょう」
「ああ……」
 プルタブを引き上げるときの爪の心配をしてくれているらしい。
「ねえ、ほんとに悪いことしてないよね?」
 他人事(ひとごと)ながら心配になり、若干狼狽(うろた)えながら、私は自分で缶を開けた。
 だって、久我くんときたら、私が何を言う間もなく実にスマートにお汁粉を購入した。どんな具合にスマートだったかというと、自販機の横に立って待っていて、私が彼の(かたわ)らに立つ、ちょうどそのタイミングで缶を差し出してきたのだ。
 ベンチに座ってもいなかった。
 自分はまだ何も買っていなかった。
 もう買っちゃいましたから、学生とはいえ男なんで見栄くらい張らせてくださいよと冗談まじりに言って、結局私はお汁粉をおごられることになってしまった。おまけに久我くんは爪の心配までしてきた。こんな高校生、怖すぎる。絶対、どこぞのお姉様に仕込まれたか、もしくは飼われているかのどちらかとしか思えない。郁巳くんだって、ここまで気を回してくれたことはない。
 ――郁巳くんの場合、恋人とかなんとか無関係に、ただ単に気が回らないってだけか……。
 思い至って落ち込む。誕生日忘却を除いても、彼は基本的に色々な意味でがさつで大雑把(おおざっぱ)だ。大らかと言えなくもないけれど、少なくとも今の私には言えない。
「久我くんの彼女は幸せだねえ」
 お汁粉の甘い湯気をふうふう吹きながら言った。久我くんはホットのミニペットボトルのミルクティーを両てのひらで包んでいる。
 意外だ。ブラックコーヒーを飲みそうなイメージを持っていた。
 隣に座っている久我くんは、なんのことを言われているのかわからないという顔をしている。
「缶開ける程度のことでこんなに気遣ってもらえるんでしょ?」
 指摘されなければわからないのは、彼にとってそれが日常だからだ。
 久我くんは苦笑した。
「このくらい当然でしょう。特に女性は爪を大切にしている方が多いんですから」
「うーん爪は大事だけどプルタブの心配をしてくれる彼氏っていうのは当然の存在じゃないかな……」
「遠野さんの彼氏は心配してくれないってことですね」
「正直は美徳じゃないよツバメ容疑者」
 久我くんが、(かす)かに声を立てて笑った。どきりとした。
 異性だと思ってときめいたのではない。ああ、久我くんもこんなふうに笑うんだ、声を立てて笑うことがあるんだと、なんだか安心したのだ。
 でも、彼の笑い方や微かな笑声(しょうせい)は、溌剌(はつらつ)とした少年のものではなかった。
 久我くんは微笑を残したまま、睫を伏せた。秋の寒い夜の中、繊細な輪郭が自販機の人工的な灯りにぼんやりと光っている。
冤罪(えんざい)ですよ。彼女…………は年下です」
「ほんとなんなのよその間は……」
 久我くんと私の間は、ちょうどひとひとり分の間隔が開いている。ふたりの間を、冷たい風が吹き抜けていく。
 日中はあんなに暑かったのに、夜になったらてのひらを返したように寒くなる。これだから、中途半端な季節は好きになれない。
 私は、久我くんの(ひざ)の上に置かれているガーベラを横目でちらりと見た。
「早く話さないとガーベラ台無しになっちゃう」
「ええ、ですからなるべく単刀直入にお願いします」
 なんで話を聞こうと思ってくれたのだろうか。とは思ったが、いちいち突っ込むのはやめた。いい加減面倒くさくなっていた。
 大体、私だっておかしいのだ。むしろ、度合いからすれば私の方がはるかにおかしい。高校生の男の子に、彼氏の愚痴(ぐち)を聞いてもらおうとしている。友だちがいないわけでもないのに。
 ――あの笑顔だろうなあ。
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