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 穏やかな。
 開いたばかりの花びらに触れるみたいなやわらかな。
 やさしい微笑だったから、声も静かだったから。
 だから。
「彼氏がね。私の誕生日忘れてたのよ」
 ――ごめん。忘れてた。
 はぁ?
 フォローは未だにない。
 もしかして、これはあれだろうか。私はふられたのだろうか。だとしたら、それはそれで腹が立つ。嫌いになったなら嫌いになった、ほかに好きなひとができたのならほかに好きなひとができたと、正面切って言ってほしい。きっちりふってほしい。
 誕生日忘れてたごめん、なんていうメールで、別れてほしい気持ちを表しているつもりだとか、察してくれだとか。もしそうだとしたら殴りたい。
「それはまた。なかなかの大事件ですね」
「すっごい興味なさそうな顔と声だよね……」
「ハードルが高すぎますよ。顔は生まれつきですし、演技力もないんです」
「顔は、うん、そりゃそうか。じゃあせめて演技力なんとかしてよう」
「哀しかったんですね気の毒に」
「ひどい大根役者だ……」
 うう、と(うな)ってお汁粉を飲む。もう缶まで冷たくなってしまっていた。
 どんなに日中暑い日が続くようでも、やはり冬は近づいてきているのだ。
 久我くんはやっとミルクティーの封を切った。ミニサイズのペットボトルから、かちりと軽快な音が鳴る。
「私みたいな女ってめんどくさいのかなあ」
 誕生日を忘れられたと、ぐずぐずぐずぐず。
 缶の底に小豆(あずき)が残っている。全部飲めるように改良しましたという趣旨の広告がずいぶん前にあったような気がするけれど、記憶違いだろうか。くるくる回して飲むのに、どうしてもきれいに空っぽにできない。
「面倒くさいかどうかは主観によるのでなんとも申し上げられません。怒りにつきましては、正当な理由だと思いますよ」
「冷静だよねえ……」
「完全に第三者ですからね」
 それもそうだ。
「お誕生日はいつだったんですか?」
 久我くんが問うのと同時に、びゅう、と強く風が吹いた。私はぶるりと身体を震わせる。
「膝掛けはさすがに持っていません」
「持ってたらいよいよ怖いよ。あとさあ、こんだけしてもらっといて説得力皆無なんだけど、彼女に誤解されるよ? こんなことばっかりしてると」
「お誕生日は」
 無視しやがったこのマセガキ。
「昨日。十月四日。(とし)はノーコメントで」
「気になさらないでください。僕の中にあるのは未成年と成年の二種類ですから」
「それもなんか怖いな」
 ごちそうさまぁ、と言いながら、飲み干したお汁粉の缶をごみ箱に入れる。下の下の方で、かこんと軽い硬い音がする。
「……泣く予定だったんだけどなあ」
 涙が出ない。
 愛情は、まだある。郁巳くんを好きだ。だから腹が立ったのだし、ふるならきっぱりふってくれと思っている。
 涙、表面張力だったはずなのに。
「胸は貸しませんよ」
「そこは駄目なのね」
 貸してほしいわけではなかったけれど、小さな笑いが()れた。
「十月の、四日ですか」
 (つぶや)くような。
 なんだか独り言みたい。
「うん」
 私は声だけで(うなず)く。
 ペットボトルのキャップを締めて、久我くんが立ち上がった。
 ちらちら光る、自販機の明かり。
「遠野志穂(しほ)さん」
「え? は、はい」
 いきなり名前を呼ばれてどきりとした。笑い声を聞いたときとは違う種類の、どきり。
 ぎくり、の方が近いかもしれない。何も悪いことはしていないし、するつもりもない。でも何故か、知らない間に何か悪いことをしていて、不意にそれを(とが)められたときのように心臓が跳ねた。
「お誕生日、おめでとうございます」
 久我くんは、郁巳くんよりよほど大人の顔で微笑む。
 ぼろぼろぼろっ、と涙が溢れた。
「ばかぁ、なんでこのタイミングで言うのよう」
 ひどい。
 その言葉は、誰より郁巳くんに言ってほしかったのに。
「ハンカチなんか差し出さないでよ! 絶対ツバメでしょ!」
「冤罪です」
 差し出されたハンカチをひったくる。
 乱暴に涙を(ぬぐ)っていたら、
「プレゼントです」
「なに? 何が」
「そのハンカチです。どのようなものがお好みなのかわかりませんでしたので、氷室(ひむろ)さんのおすすめにしました」
「……ばかぁぁあああああああ」
 そこそこ広い園芸店、敷地内には小さいながら、雑貨を置いているスペースがある。アロマキャンドルやオーガニックの石鹸(せっけん)を主に扱っているのだけれど、その横に硝子(がらす)細工(ざいく)のチェスセットとかアンティークの銀器とか、外国の古本なんかも置いてある、よくわからない場所だ。そして、それらよくわからないものの出どころは、大抵氷室さんだった。
 いつの間に買ってきたのか。
 きっと、久我くんは私にハンカチを貸すつもりは最初からなかったのだ。胸は貸さないと言った、たぶん、理由は同じ。
 落ち込んでいれば察するし、付き合って愚痴も聞くし、飲み物もおごるし、缶のプルタブを引く爪の心配もするし、持っていれば膝掛けだって貸してくれるのだろうけれど。
 でも、涙を受け止めることだけは、絶対にしないのだ。
 それがきっと、久我くんが彼女に(ささ)げている純情なのだ。
「遠野さんを泣かせている罪な彼氏は、お酒を(たしな)まれますか」
 ぐすっ、ぐすっ、と鼻を(すす)る。寒い。
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