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からっぽ






 私の幼馴染みの有栖川(ありすがわ)と、彼のおじいさんには、いつも原因不明のせつない空気がつき(まと)っていた。
 有栖川はよく、あんなに大きかったじいさんの手を小さく感じるようになって、見上げていた筈の長身に、僕はもう少しで追いついてしまう、と言っていた。成長って、身体が大きくなることでもあるんだったね、と子どもらしくないことも言っていた。そういうとき、彼はまるで冗談のように朗らかに笑っていたけれど、その眼が真剣だったので、私には冗談でもなんでもないことがすぐにわかってしまった。
 気がついたときには既にご両親がなく、おじいさんが唯ひとりの肉親だった有栖川にとって、おじいさんはすべてだったのだろう。
 彼の中身のない遠い微笑を見るとき、私はいつもぽっかりとそう思っていた。



 古びた引き戸は(きし)みながら開き、中から有栖川が顔を出した。
「おはようっ」
「おはよう」
 元気に挨拶すると、有栖川も苦笑しながら返してくれる。
 まだ朝が早いせいか、真夏の陽射しもやわらかい。とはいえ、綺麗な青空と目を射るような白さの雲は、今日も一日が暑くなることを明確に告げている。裏の雑木林から、ちらほらと鳴きはじめた蝉の声が聞こえた。
 有栖川は引き戸に手をかけたままふり返り、家の中に向かって声をかける。
「じゃ、いってきます。買い物は学校帰りにしてくるから、じいさん、無理しちゃ駄目だよ」
 有栖川が釘を刺すように言うと、暗く見える家の中で、おじいさんは困ったように笑ったようだった。この台詞(せりふ)はもう日課になっているのだ。
有珠(ありす)は心配性だねえ」
「じいさんが無頓着(むとんちゃく)なんだから、僕が心配性なくらいがちょうどいいんだよ」
 おじいさんは、この春に一度、倒れていた。短期だったけれど、入院もした。
 私もあのときは、もしこのままおじいさんが死んじゃったら、と不安になったけれど、それ以上に、有栖川の怯え方が忘れられなかった。
 そのときはじめて私は、有栖川がどんなにおじいさんを精神的な()りどころとしていたのかを思い知ったのだ。
 陰になった部屋の中は、玄関からはよく見えない。ただ、その真ん中にぽつんと座しているおじいさんはとても小さい。鴨居をくぐるほどの長身なのに。
 背筋を伸ばして正座し、心持ち(うつむ)き加減に目を閉じているおじいさんは安らかで、それが有栖川をいつも不安にさせる。
 そのまま、すうと呼吸がなくなってしまうのではないかと。体温が失われていってしまうのではないかと。
 夜中に何度も目を()ましては、おじいさんのくちもとにてのひらを(かざ)すのだという台詞を思い出す。そして微かな吐息に安堵(あんど)し、また眠りにつく、と。
 ほう、とおじいさんが息をついた。
「どうしたの」
 有栖川が尋ねる。
「うん? ……有珠は、大きくなったなあ」
 唐突に、そんなことを言い出した。
「もう高校生になるんだなあ……大人なんだねえ……」
 見上げると、有栖川は苦笑していた。
 言葉がなかったのだろう。
 僕はまだまだ子どもだよ。声は出さず、唇の動きだけで有栖川は返していた。私は胸が締めつけられるのを感じる。有栖川は、どうしてこうなのだろう。
「おじいさん、いってきます」
 私が言うのを待って、有栖川は引き戸をきちんと閉めて、鞄を抱え直した。学校指定のそれには、辞書とノート、参考書。それから問題集。クラスは違えど内容にそんなに差はないから、有栖川の鞄の中身は大方そんなところだろう。結構重たい。足を踏み出すと、乾いた砂がかさりと音を立てた。
 中学三年生の夏。
 高校受験を控えているとはいえ、それは未だ明確なかたちを取り得ず、薄ぼんやりと遠くに存在している。はっきりとした進路を決めていないひとも多い。
 有栖川は迷わなかった。高校も、その先についても。
 おじいさんがそうであったように、また、話に聞いていたお父さまがそうであったように、医師になるのだと決めているらしかった。
 けれど、その意志の底に常に焦燥があることも、私は知っていた。いつも落ち着いて穏やかな有栖川が時折発作的に見せる焦燥。本当にごく一瞬、ほんの刹那(せつな)の弱音であったり苛立(いらだ)ちであったり。声を荒げることのない彼だから気づくことは多分難しいと思う。鈍感な私が気づけるのは、彼と一緒にいる時間が長いからだ。彼の常態を知っているからこそ、その際の切羽詰(せっぱつ)まった、鬼気迫(ききせま)る感じが痛々しいほどで記憶に残る。
 中学を出たら、もう充分に働ける年だという現実が、彼を焦らせていた。自分の力で稼ぐことができるのに、結局おじいさんに頼っていると。
 本来恥じることではないのに、後ろめたさを感じなければならないことでは決してないのに、有栖川は気に病んでいる。
 今までずっと守ってきてくれたおじいさんを、今度は守ってあげられる筈なのに、と。
 医師になりたいという気持ちに、いつだって嘘はないのだろうと思う。けれどその反面で、早く働きたいという気持ちも強く持っている。それら相反するふたつが、有栖川の中でいつもせめぎ合っている。
 どちらにせよ、心の根底にある想いが同じであることは明らかだった。
 きっと有栖川は、はやく大人になりたいのだ。
 はやく大人になりたい。



 有栖川のおじいさんの手は桧皮色(ひわだいろ)をしていた。骨と筋ばかりが目立つ、細い手だ。爪はいつも、深爪なんじゃないかというほどに()(そろ)えてある。硬いざらざらとした感触は、指紋の(みぞ)まではっきりとわかるようだった。
 おじいさんは子どもが好きなわけでもなく、陽気でもなく、いつも眉間に深い(しわ)を寄せているようなひとだったけれど、誰よりも近くで有栖川を大切にし、守り続けていた。
 有栖川は、気がついたときからおじいさんとふたりきりだった。
 気がついたときから、という言葉の主語は当然『私』であり、『有栖川自身』も、そうだ。つまり彼は自分のお父さんやお母さんを知らない。でも、問題なのはそんなことではなかった。
 有栖川は友だちは多かったけれど、いつだってひとりきりの、孤独だった。懐かしいような、せつないような、(ほこり)っぽく煙った明るすぎる景色みたいな寂しさを身体中に纏って、孤独だった。それはきっと、おじいさんに由来していた。
 彼は、見たこともない両親の死の場面――たとえば冬、雪の上に落ちた真っ赤な椿、そのコントラストを思い浮かべるように鮮明に、その光景を想像することができるのに違いない。そしてそれがそのままおじいさんの死の場面へと繋がっていく。だから有栖川は、家から離れることを好まない。
「誰のせいでもないことはわかってるんだよ。もし僕が学校から帰ったとき、じいさんが倒れてて――息、してなくても。僕のせいじゃないし、誰のせいでもない。それはいつだって、誰にも止められないことだから……」
 有栖川のその言葉が嘘であることを、私はすぐに看破(かんぱ)した。
 だって本当に言葉通りに思っているのなら、有栖川がこんなに遠慮がちに、片隅にひっそりと居るように生きているのは、それこそ嘘だ。
 彼は若さや、それ故のエネルギーを、おじいさんや薄暗く湿っぽい日本家屋に吸い取られてでもいるように蒼白く、物静かだった。加えて、有栖川はおじいさんが死ぬことを何よりも怖がっている。常に心を支配する恐怖が、彼の視界を冬の曇りの日みたいにどんよりと暗くさせていた。
 私と有栖川の見ている景色は違うのだ。
 私が感傷的に景色を眺めるよりももっと寂しく、彼の目には世界が映っているのに違いなかった。わかってしまうのが哀しかった。けれどもそれはどうしようもないことだ。
 私は有栖川とは二歳からの付き合いで、もう長いこと彼の隣にいるけれど、有栖川のそういう部分は変えられない。たとえ手を繋いで眠っても、抱き締めてみても、変えられない。
「有栖川のうちと、私のうちがお隣同士だったらよかったのにね」
 私が言うと、
「うん? どうして」
 と()()ない返事。
「だって。そしたらさ、すぐだもん」
「今だってすぐだよ」
 有栖川とおじいさんの家から徒歩十分もかからない距離に、私の家はあった。にんじんを輪切りにしながら笑う彼に「そうだけど」と唇を尖らせながら、私は、それじゃ遠いんだよ、と密かに思う。
 私が言いたいのは、窓と窓がくっつくほど近くだったらいいのに、ということなのだ。
 もしそうなら。
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