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 もし、お互いの家を隔てるものが硝子(がらす)二枚、或いは小さな垣根だけならどんなにいいだろう。
 私が本当につらいと思うのは、有栖川の身体が遠いことではないのだけれど――それでも。
 部屋の奥では、おじいさんが新聞の整理をしているらしく、紙の擦れ合う音が(ひそ)やかに聞こえてくる。週に三回か四回、夕方、学校帰りに有栖川の買い物に付き合い――というか私が勝手についていって――そのままお夕飯の支度を手伝うのは、小学校の頃からの習慣になっていた。
「にんじん、お花のかたちにしてね」
 有栖川は、わかってるよと笑った。
 私はふと気が遠くなるような、眩暈(めまい)みたいな感覚に(とら)われた。有栖川は本当に綺麗に微笑むけれど、どこか寂しそうに見える。
「やっぱりいけないのはその眉毛かもしれない」
 隣に立つ端正な面差(おもざ)しの幼馴染みを観察しながら、私は()らした。有栖川はやさしくこちらを向いて、丁寧に問い返す。
「何が?」
「眉毛。有栖川の、ま、ゆ、げ」
 おたまを置いて、自分の眉毛を指差す。眉毛? と、有栖川も自身の眉を指差した。
「有栖川の眉毛って、まっすぐで綺麗なんだけど――目も、(まぶた)とかね、綺麗だなあって思うんだけど、……目と眉毛をセットにしてみると、なんだかちょっと寂しそうに見えるの。気のせいかなあ」
「そう――そう、かなあ」
 あまり関心がないように首を(ひね)る。彼は容姿に頓着しない。
 そうだよ、多分、と言い返した声が不貞腐(ふてくさ)れたみたいになって、私は思わずくちもとを手の甲で押さえた。
「それが悪いっていうんじゃないよ」
「わかってるよ」
「ならいいの」
 ただ、ね。
 おたまを持ち直し、お味噌汁をぐるぐるかきまぜる。
 ただ。
 哀しくなってくるのだ、私が。笑っていてさえ哀しそうに見えるのは、本当の本当は顔の造作なんか関係なくて、彼の心の根元に哀しみが(あふ)れているからではないかと思ってしまって。
 有栖川はやさしいし、しっかりしているから、どんなに苦しくても苦しいと言わない。特に自分が決めたことに関してはそうだ。自身で取捨選択した事柄について、どんな苦労があっても、ひとつの不平不満も漏らさない。周りの大人は彼を褒める。有珠くんえらいね、って。
 でも私はそうは思わない。――違う、確かにえらいしすごいと思うけれど――でもそれは、やっぱり少し心が痛い。苦しいときにぶつぶつ不満を並べられるのは、私がそうできるのは、それが許される環境に育ったからだ。けれどそれなら、有栖川はどうなのだろう。彼のそういう性格は、どういうことなのだろう。
 思うと、痛い。私だっておじいさんを大好きなのに。
「ほら彼方(かなた)、ちゃんとにんじん花形にしたよ」
 梅の花のかたちになったにんじんを見せて、ね、とにっこりする。
「……うん。ありがとう」
 お花のかたちに満足して、出来上がった煮物の味を想像して、私もにっこりした。でも、……きっと、寂しい笑顔だった。有栖川は何も言わずにいてくれたけれど、心からの嬉しさや楽しさから表出した笑顔じゃなかった。
 そしてそのまま考える。
 私と有栖川って、どういう関係なのだろうと。
 ――有栖川くんって、好きな子とかいるのかな?
 周囲はもう、恋を楽しんでいる最中だった。私が女の子からそんな質問を受けたのも、一度や二度ではない。
 好きな子。
 そんなこと、考えたこともなかった。有栖川に好きなひとがいて、もしかしたらそのひととお付き合いしたりして、年を重ねれば結婚したりもするかも知れなくて――。
 隣の有栖川を見詰める。通った鼻梁(びりょう)、真っ黒な瞳。私は彼に愛されているとは思うけれど、それが恋だとは思わない。有栖川の私に対する想いは、同年代の男の子が好きな女の子に抱くものとは、恐らくまったく異なっている。若さ、幼さという特権だけで無条件に振りかざせる、まるで極彩色(ごくさいしき)のような明るく強烈な色彩は、有栖川の想いには、……ない。
 私にとって恋は遠いのだった。恐らく、有栖川にとっても。
 私だって有栖川のことはとても好きだけれど、私の言う『好き』もやはり、恋とはきっと違う。彼女たちから簡単に発せられる好きなひとという言葉ですら、私には遥かに(かす)んで見えた。
 でも、口に出していないだけで、有栖川にも思いの大半を費やす誰かがいるのだろうか。
 私と有栖川は幼馴染みで、その関係は――希薄になることがあるにせよ――普遍的だけれど、現在のようにぴったりと寄り添ったままお互いが成長していくかといえば、それは違うのだ。みんながそれぞれに生きている。誰ひとり、どんなふうに生きていくにしたって、その道が重なることなんか絶対にないのだ。



「ラヴ」
 外は、雨。
 銀色のカーテンが世界を白く煙らせて、耳に届くのはやわらかな潮騒。
 校舎とは完全に別棟の古い図書館は、窓枠の木も机も本棚も水気を含んでしっとり黒く、部屋全体には湿り気につられた古い紙の匂いがゆったりと漂っていた。
「ハウ、トゥ、ラヴ」
 頬杖をついて、私は目の前の男の子に言った。
 (はす)に構えた感じだったから、不機嫌そうな、宣言するような様子に映ったかも知れない。
「カラダで?」
「アホたれー。メンタルだよ」
 わかってる。わかってるよ。
 手にした分厚い本を棚に戻しながら、柘植(つげ)くんは軽妙に笑った。
「でもそれは」
 別の本を二冊取り出し、抱えて私の前に座る。
「俺に訊くことなの?」
 言葉に詰まって閉口する。柘植くんは鋭くて困る。濃い茶色の髪はやわらかそうで、鳶色(とびいろ)の瞳は大きくて人懐っこい、だけど柘植くんは自分の本心を無防備に他人に触らせることは絶対にしない。
 私はどう言ったものかと逡巡(しゅんじゅん)し、話題を変えることにした。
「柘植くんは、好きなひとっている?」
 話題の転換は失敗に終わる。私の声は静かな図書館に不気味なほどに染み渡った。
 柘植くんは少し面喰(めんく)らったような表情のあと、(わず)か考え込むように視線を巡らせてから、「今は、うん、いないかな」と歯切れ悪く答えた。
「本当に?」
「どうして俺が嘘ついてると思うの?」
「――」



 柘植くんと知り合ったのは、中学に入学してからわりとすぐ――まだ桜の花が残っている頃だった。別の小学校だった彼は、中学に進学した際に有栖川と同じクラスになり、意気投合したらしい。
 私は有栖川の家に用事がなくてもよく入り浸っていた。幼い頃交わしたある約束とは別に、有栖川の家――正しくはおじいさんの家――は居心地がよくて、そこに漂う古びた本たちのような寂しさに気づけない程度に鈍感だった私には、夢の続きのような、プールから帰っての昼寝のような懐かしさばかりがあって大好きだった。勿論、今になっても習慣のように有栖川の家には遊びに来ているのだから、現在だって大好きには変わりない。
 土曜の午後だった。
 入学したてで、制服はまだぴかぴかで、でもちょっと似合っていなくて、なんともいえない微笑ましい、かわいらしい感じの時期。
 その日はよく晴れていた。
 昨夜の雨に打たれて凋落(ちょうらく)した桜が、まだ生乾きのアスファルトを美しく(いろど)っていた。昼ご飯を作らなければいけなくて、その日有栖川とは一緒に帰れず、話したいことがいっぱいあってうずうずしていた私は、
「ごめんくださーい」
 と、そのときもまた、有栖川家に顔を出したのだった。昼食を作って、食べずにとって返してきたのだ。
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