back  |  next   
 そこに柘植くんがいた。
 柘植くんは近所の歯医者さんの次男坊で、有栖川より二センチほど背の高い、色素の薄い男の子だった。茶色い髪や人好きのする笑み、大きな瞳が犬みたいだ。
 私はといえば、びっくりしてしまっていた。
 有栖川はひとを家に呼ぶということをあまりしない。あまりというか、私の知る限りでは、私を除いては柘植くんが第一号だと思う。友だちはいても、自身の深みに触れられることを極端に嫌う――というよりも怖れる有栖川が、ひとを家に呼ぶだなんて。
 大袈裟(おおげさ)かもしれないけれど、私にとっては世界がひっくり返ったかのような衝撃だった。有栖川はどうにかなってしまったんじゃないか、と本気で心配したりもした。
 目の前に、有栖川。その隣にいるのが、おじいさんでもなく、私でもない。私の目には、ほんの一瞬だけれど、柘植くんは闖入者(ちんにゅうしゃ)に映った。
 と、いうことは、やっぱり私の柘植くんに対する第一印象はいいとは言えなかったことになる。やきもちを妬いたのかもしれない。
 ただ、私も、多分有栖川がそうであるように、すぐに柘植くんにめろめろになった。
 事の発端(ほったん)は、猫。
 私が飼っている、ハレという名のトラ猫だ。
 ハレもよく有栖川の家に来てはごろごろと(くつろ)いで帰っていくのだが、このハレがまず柘植くんにめろめろになった。
 柘植くんはちょくちょく有栖川の家に遊びに来るようになっていた。遊びに来させても、行かないところが有栖川らしいな、などと思いつつ、私はまだ柘植くんに対してどう接していいのかわからず、人見知りしない私にしては珍しく彼との距離を取りあぐねていた。
 クラスが違うにせよ、もう何度も学校でだって顔を合わせているのに、よそよそしい態度の消えない私に苛々(いらいら)するでも不機嫌になるでもない柘植くん。目が合えばにっこりしてくれる彼の底抜けた明るさ、寛大さに戸惑っていたとも言える。
 要するに私は、人間が関係を作っていく上でもっとも大切といってもいいファーストコンタクトを失敗して、そのフォローをどうしたらいいのかわからなくなっていたのだった。
 にも関わらず。
 にも関わらず、ハレ(も有栖川も)、柘植くん大好き。いや、有栖川はともかく、どうしてハレが? さすがに私はやきもちを妬いた。以前のようなぼんやりとしたものではなく、はっきりとやきもちを妬いた。
 だってハレときたら、私には気が向いたときしか膝に乗ってこないし、呼んだって返事をしてくれないことがあるのに、柘植くんに対しては態度がずいぶんと違うのだ。
 柘植くんがいるときは必ず彼の膝の上に乗りたがって足もとに擦り寄っていくし、呼ばれれば尻尾だけじゃなく、ちゃんと声まで出して返事をする。これが犬だったら、気が違ったみたいに喜んでいるようなものなんだろうな、と思って、私はむうっとふくれた。
 そこで私は、少し離れて柘植くんを観察することにした。動物は愛した分だけ愛し返してくれるという。真偽のほどはさて置き、これには何か理由があるんじゃないかと思ったのだ。
 理由は、あった。
 柘植くんは、とてもとても丁寧に、根気よくハレとの接触を試みていた。
 無理に撫でたり、抱き上げたり――引き寄せることも、自分を押しつけることもなく、互いにとって心地よい距離を少しずつの手探りで模索しながら、ハレと仲良くなろうとしていた。
 それをしっかりと理解する頃には、私も彼にめろめろになっていた。
 こんなに心の大きなひとは、なかなかいるものではないだろう、というのが私の柘植くんに対した評価だった。そして、それは今も変わっていない。彼ほどのひとはそういないと思っている。
 有栖川は即座に、そしてハレは彼からの接触を機に時間をかけて、それを知ったのだと思う。



 やっぱり柘植くんには敵わないのかもしれない、と思った。
 彼は一直線で真実を捕まえるようでいて、その実、周囲にもひとの三倍ほど気を配って色々なことを見て吸収している。私だってそうする努力のようなものはするけれど、彼と私で決定的に違うのは、彼はそれを億尾(おくび)にも出さないということだ。
 雨はまだ降り続いている。
 私は傘を持ってきていない。
 柘植くんに振りかけた質問はそのままに、私の頭は――心は、一足先に帰路についた有栖川を想いはじめる。
 ハウ・トゥ・ラヴ。
 私はこれまでに一度も、有栖川や柘植くんに対するこの気持ちが恋だと思ったことはない。
 正面の柘植くんを見る。このひとに愛されるのはどんなひとなのだろう。
「今はまだ、柘植くんは誰かを好きなわけじゃないんだね」
 すごく子どもっぽい口調になってしまった。柘植くんは笑う。
「うん。多分ね」
「わかんないなあ。多分って。自分のことでしょう?」
 呆れて返すと、柘植くんは困ったふうに苦笑した。
「でも、自分のことって案外わかりづらいもんだよ」
 彼は色々なものを見、吸収しているのだった。――私が未だ触れたことのない、恋、すらも?
「ラヴ」
「うん?」
「好きって厄介(やっかい)だね。なんでこんなにいろんな種類があるんだろう。恋ってどんなものなんだろう。どういう好きが恋なのかな」
 柘植くんは黙った。考え込むような沈黙のあと、
「越えてから、気づくような」
 と(つぶや)いた。
「何かの境目(さかいめ)を越えるような。今までと立つ位置が違うことには、線を越えてからじゃないと気づけないから……その何か一線を超えてはじめて、越えてしまったと気づくようなもの」
 ――だって、本か何かで読んだ覚えがあるよ、と付け加えた。
 境界線を越えるような?
 私には、その線がどこにあるのかすらもわからないのに。
「柘植くんは、本当に誰にも恋してないの?」
 イエス、とも、ノーとも言わなかった。柘植くんはさっきと同じように「多分ね」と曖昧(あいまい)に答えて、薄く微笑んだ。本心をなかなか見せないという点で、彼は有栖川とよく似ている。
一奈(たかな)さん、傘は」
「持ってない」
「入ってく?」
 猫扱い。
 お互いにちょうどいい距離を、根気よく探すように柘植くんは尋ねてきた。
「……うん」
 私は(うなず)くしかないみたいに頷いた。
 ハレみたい。
 帰り道、私はひとつ傘の下で、またも柘植くんをじっと見詰めた。今度は彼は視線を合わせてきて、どうしたの、とまるで子どもに問いかけるみたいに微笑んだ。
「柘植くんは有栖川を好き?」
「一奈さんが、じゃなくて?」
 柘植くんは一言で私を突き放した。私は言葉を失い、口を(つぐ)む。それから、「――手、繋いでもいい?」と訊いた。柘植くんは、馬手(めて)に傘、弓手(ゆんで)に鞄で両手がふさがっているのに、あっさりと了承した。
「いいよ。でも傘は」
「柘植くん使って。私はいいや」
 そもそも柘植くんと私じゃ身長差がありすぎて、私も、無理して傘を下げてくれている柘植くんも、半身はすっかり濡れてしまっている。笑いながら言って、私は(うつむ)いた。そうしたら、何故だかそのまま顔を上げられなくなってしまった。
 恐る恐る柘植くんの手に触れる。柘植くんのてのひらは大きくてあたたかく、少し乾いていた。この手に触れることに甘く緊張する女の子が、きっとどこかにいる筈なのだ。そのことと、それが彼に伝わること、ふたつの間にはどれだけの距離があるのだろう。
「私たち、恋人同士に見えるかなあ?」
 相合傘で手を繋いでいたら、ただの友だちの私たちも、恋人同士に見えるだろうか。
 雨はやさしく降り続き、肩越しに柘植くんの体温が伝わってくる。柘植くんはのほほんと、「見えるかもねえ」と言った。


 back  |  next



 index