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 有栖川はおじいさんがいることで多くのものを我慢したり、諦めたりしなくてはいけなくなっていた。おじいさんがそれを望んだのではなく、有栖川が自身にそれを課していた。
 人生の中でいくつもあるだろう『取り返しのつかないこと』、おじいさんに関してそれが()()まってしまうことを何よりも怖れていた有栖川は、自分がいない間におじいさんが病気や怪我をしてしまうことを危惧(きぐ)して修学旅行も行かなかった。
 彼の行動の基準になるのは、自分がどうしたいかよりも、まず、おじいさんに何事もないか否か、なのだ。
 だからといって、おじいさんがいなくなればいいというわけでは、決してなかった。誰もそんなこと望んでいなかった。
 私たちが高校に上がったその年の秋、おじいさんは()った。
 有栖川は蒼ざめた瞼で月にしとどに濡れながら、それでも涙は見せず、ぴしりと背筋を伸ばして正座していた。胸を少し張り気味にするのは、長年親しんできた弓道が染みついているからだろう。(ゆが)みも(たわ)みもない背中が哀しかった。
 静夜思(せいやし)に詠われたような庭の風景、(さや)かな月光が霜のように石の上に白く降りている。
 庭の片隅には(すすき)が揺れていた。りり、と、断続的に虫が(はね)を震わせる。その音に、私の鼓膜も震える。開け放した障子から涼風が吹き込み、有栖川の蒼い頬を撫で、閑散とした和室に満ちた。
 すう、と深く息を吸い込む。
 胸いっぱいに吸い込み、ぴたりと止めた。
 閉じた瞼をうっすらと開く。夜に色づいた(ふすま)が見えた。



 遺品の整理はひとりでするというので、私はしばらく有栖川を放っておくことにした。私は高校に通いながら、プロとアマチュアの間のようなはっきりしない立場で小説を書いていたけれど、他には本当に何もしていなかったので、時間は腐ってしまうのではないかというほどたくさんあった。だから、たくさんある時間の中で、有栖川のことをいっぱい考えていた。
 有栖川はこれで本当に血の繋がったひとが誰もいなくなってしまったわけだけれど、これからどうするのだろう。どうなるのだろう。一応まだ未成年なわけだし、身元保証人とかそういうひとが必要なのではないだろうか。親戚らしいひともひとりもいないお葬式だった。有栖川はこのままどうなってしまうのだろう。
 そういえば私は、長いこと有栖川の(そば)にいるけれど、彼の深い事情をほとんど何も知らない。私が知っているのは、たとえば彼の癖、必ず第二(ぼたん)から留めることだとか、食事をするときは必ず汁物から口をつけるだとか、泣きたいときに(まばた)きがゆっくりになること。彼の見える部分、彼が見せている部分だけだ。
 そんなことを考えながら、思う。
 死は自然なこと、誰にも等しく訪れるもの、誰にもどうしようもないこと――そんな言葉を並べてみたところで、それが有栖川にとってなんの慰めにもならないのはわかりきっていることだった。私にとっても。そんな言葉は発した途端に嘘になってしまう。
 景色はやさしいまま何も変わりはしないのに、有栖川の家の庭の風景は変わらず長閑(のどか)なままなのに、もうその一場面の中におじいさんの姿が映ることはない。背の高い有栖川のおじいさんが大きな竹箒(たけぼうき)を持って落ち葉を掃いたり、有栖川と一緒に洗濯物を干したりするあたたかい物音を聞くことは、もう永遠にない。
 それを思うと、涙が出てきた。
「何泣いてるの?」
「えっ」
 降って湧いたような声に驚いて、顔を上げる。窓の向こうに、薄手のコートを羽織った有栖川が浮いていた。
 ――ように見えた。
 私の部屋は二階にある。その窓の至近距離まで枝を伸ばした椿の古木があって、それを登ってくれば窓から室内に入ることも容易にできた。――とはいうものの、そんなことをしたのは幼少の頃の話で、高校生にもなった有栖川がそんなところから顔を出すとは夢にも思わず、私は少しの間何が起こったのかわからずにいた。
「有栖川。玄関から来なよ」
 慌てて窓を開けて、心持ち呆れた声を出す。有栖川は身軽に椿の太い枝をくぐり抜け、靴を脱いで窓の桟に足をかけた。
「うん。僕もそう思うよ」
 まったくこたえていないふうなので、私もそれ以上何も言えない。そもそも、来たくなったらいつでも、どんなかたちでも私のところへおいでよ、と言ったのは私なのだ。
 有栖川はポケットからビニール袋を出すと、その中に靴を入れた。私は書きかけの原稿を横に押しやって、彼の向かいに座る。有栖川が私の部屋に来るなんて、何年ぶりかのことだった。それだけおじいさんの死が有栖川にとってつらいものだったということなのだろう。それ以外の理由を思いつかない。遺品の整理や何やらを、すべてひとりで片付けていっている有栖川だけれど、だから精神的に参っていないかといえば、正反対に違いないのだ。
 深い溜息をついた有栖川の瞼は、お葬式のときと同様に蒼ざめていて、不謹慎だとは思うけれど、それが一層、怖いくらいに彼を美しく見せていた。
「お茶、欲しい?」
「ううん。ありがとう」
「……」
「……」
 有栖川と一緒にいて沈黙が苦痛になるのは、決まって有栖川か、私が苦しいときだと相場が決まっていた。そういうことがなければ、私たちは本当に、手を伸ばせば届く距離にいながら、一日中でも黙って過ごすことができた。気を遣い合って喋り続けるという、ときに無粋になりがちな行為を、幸福な無知故に為さない子どものように、普段の私たちは沈黙を楽しんだ。
「誰かが死んでしまうのは、痛いね。つらいし」
「……うん。本当にね」
 苦痛の沈黙に耐え兼ねて私が言うと、有栖川はそっと答えた。
 痛いね、つらいね、と言いながら、私は多分本当にはそのつらさを知らなかった。暢気(のんき)な父、活気ある母、時々憎たらしいけれどかわいい妹たち、慕ってくれる猫、陽気な友だち。私にはそういう、明るく軽快な世界があって、それらに触れてはしゃぐことができる。
 でも有栖川は、羽目(はめ)を外したり、はしゃぐ、ということをしない。知らない。心の中央におじいさんを据え置き、自分の影を薄めさせてまで、取り返しのつかないことにならないようにと生きてきた。
「有栖川、独りになっちゃったね」
 言うと、有栖川はほんの少し瞼を持ち上げた。それから消え入りそうな声で、「違うよ」と呟いた。
 違うよ、彼方。
 僕はずっと前から、生まれたときから天涯孤独だったよ。
 ――驚いた。
 私はそれを、両親がいない、おじいさんとも実は血が繋がっていなかったという額面通りの意味に受け取った。
「有栖川、ひとりぼっちなの?」
「血の繋がりの話じゃなくてね」
 私の勘違いに気づいて、注意を入れる。私はなお悪い、と鼻の奥がつんとした。
 喉が詰まって、変な声になった。有栖川は穏やかな様子で頷く。
「うん。ずっとね」
 耐えきれず、私は俯いた。細長いおじいさんのシルエットが、脳裏に(ひらめ)く。俯いたのは失敗だった。私の目に溜まった(しずく)は、引力に導かれるまま絨毯(じゅうたん)に落ちた。
「でもね、彼方。孤独なのは僕だけじゃないんだよ」
 私の涙に気づかないふりをしてくれたのか、有栖川は何も言及することなく真っ直ぐに前を見たまま続けた。
「僕だけじゃない――彼方も、柘植も、みんな。ずっと孤独のままだよ。――ひとは、そういうものだよ」
「今でも?」
 私がいても? とは訊けなかった。 
 有栖川は、少し困ったような、寂しそうないつもの微笑を浮かべた。
「ずっと」
 その言葉は、私の中で重く響いた。
 ずしりと重く。
「独りじゃないっていう錯覚ができるだけで、ずっとね」
「さみしくない?」
 泣き声になってしまった。隠しようがなく、私は力任せに腕で目を(こす)る。
 有栖川はわかっているのだろうか。
 わからないふりをしているのだろうか。
 どうしてなのだろう。私の身体にはこんなにも、有栖川の孤独が染みてくる。
 有栖川は答えなかった。
 逆は多くあっても、私の質問に彼が答えないことは滅多(めった)にない。だからこそ、強く問い質すことはできそうになかった。
 じわじわと(にじ)む涙を拭う。「かなしくないの?」と問うと、「哀しい。整理していると涙が出てくるし、一旦泣き出すと止まらなくなるんだ。だからひとりで片付けてる。気を失うこともあるからなかなか進まない」と答えた。思った通りの返答に、私はまた涙が出てきた。
 有栖川は私と違って、あまり泣かない。泣き方を知らないのかもしれないと時々思う。ただ、泣きたいとき、有栖川はいつも伏し目がちにゆっくりと瞬きをする癖があって、それで私は、ああ、このひとは今泣きたいんだ、と知ることができた。
 滴の溜まった目で有栖川を見上げる。有栖川はやっぱり伏し目がちに、眠たそうにも見えるほどの緩慢な瞬きを繰り返していた。
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