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 やっぱり、と思った。
 それから、やっぱりと思ったということは、私が彼のその癖を見るよりも先に、彼の涙を予想していたのだと気づく。
 はらりと散るように、私の目から滴が(こぼ)れる。有栖川は変わらず穏やかに瞬いている。
 長い(まつげ)が滑らかな曲線の頬に淡い影を落とす、伏し目の美しいひと。


 登校する際にマフラーを巻くようになった頃、私は有栖川に尋ねた。
「手伝いにいこうか?」
 有栖川は学校が終わるとすぐに家に帰って、遺品の整理を続けているようだった。整理はひとりでするから、と言われてから夕食の支度もしにいっていないので、有栖川がきちんと食事をとっているかずっと不安だったのだ。実際、最近の有栖川は少し痩せているように思う。
 有栖川は、ありがとう、と微笑んで、
「でも、情けないことにまだ泣くことがあるから。食事はちゃんととってるよ、大丈夫。心配しないで」
 と、やんわり拒絶した。
 心配しないなんてできっこないのに。
 そんなある日の夜、夢を見た。
 初夏の昼下がり、私は庭に面した和室で(たたみ)(じか)に転がってうとうとしていた。おなかには誰かがかけてくれたらしい、薄っぺらなタオルケットが乗っかっている。夢の中で私は七歳くらいだった。
 私は夢と現実の世界を幾度となく往復しながら、庭を観察する。濃い影が小石を浮かび上がらせている様、緑の葉の色、それらが陽光に透ける具合や咲きはじめたタチアオイの赤色を。
 意識の底では、世界が晴れた日の音を立てているのが聞こえている。私はそれを追いかけながら、また眠りに落ちる――幸福な午後だった。
 その幸福なまどろみが、不意に終わりを告げる。場面は一瞬のうちに有栖川の家の玄関に移った。もう想い出になってしまった懐かしいおじいさんと挨拶を交わし、家の中に入る。有栖川の姿は見えないのに、何故だか彼が、さっきの私のように和室――この家は増築部を除けば和室しかないのだけど――で昼寝していることがわかった。有栖川がいるだろう部屋を探して、幼い私は玄関を上がり、廊下を歩き、襖を順番に開けていく。そしていくつめかの部屋で、私は二体の姫だるまを見つけた。何もないがらんどうの部屋の床の間に、赤い着物の女の子と、黒い着物の男の子の達磨(だるま)がこぢんまりと置いてある。
 姫だるまをはじめて目にした私は、物珍さからそれに近寄り、女の子の方を手にとってためつすがめつして眺めた。そんなに大きくないとはいっても、夢の中の幼い私の手には余る大きさで、しかも結構重たい。金糸銀糸で縫い取りのしてある美しい着物を丸く着込んだ達磨の顔は穏やかで、私は、こんなにきれいなだるまさんがあったんだ、なんだろう、おみやげかな、などと考えていた。当時、私は姫だるまを知らなかったのだ。
 それから突然悪いことをしているような気になって、ぱっと達磨をもとの位置に戻した。有栖川の家はしんとして薄暗く、外でぎらぎら輝いている太陽が嘘みたいな涼しさで、その中で美しい顔の人形とぽつんと向き合っていることが急に怖くなったのだった。私は慌てて立ち上がり、隣の襖を開けた。そこは幸いにも縁側のある明るい部屋で、凍えかけた私の心をあたためた。
 その部屋の中央に有栖川がいた。
 入口に突っ立ったまま、私の視線は畳に転がる有栖川に注がれた。
「ありすがわ」
 小さな声で呼ぶ。そういえば、私は何故か彼を姓で呼ぶ。
「寝てるの?」
 私はその場に膝をつくと、ひっそりと尋ねながら膝で歩いて有栖川の方へと寄っていった。(かたわ)らに辿り着き、彼の顔を覗き込んだ拍子に垂れた長い髪が、有栖川の幼い頬をくすぐる。
「起きてる」
 有栖川は、転がったままぼんやりと庭を眺めているようだった。気だるい午後の眠りからすっきりと目覚めることができず、まだ片足があちらの世界に浸かっているような声音。
「なにかあるの?」
 言いながら、私は有栖川の頬を指先でつついた。てのひらは少し汗ばんで、熱く湿っている。黙っているので、私は彼と同じ視点を得ようとでもいうように頬を寄せ、無理な体勢で有栖川に重なって庭を見詰めた。有栖川は笑った。気づいて私も笑う。夏の生命力ですら届かない、暗く涼しいこの家に、突如生命が芽吹いたみたいだった。
 それから私たちは、庭で水をかけ合いながら遊んだ。細長いホースから出る水飛沫(みずしぶき)、そこに生まれる虹を捕まえようとはしゃいだ。白いノースリーブのワンピースを着た私の肩は日に焼けていて、時折覗く胸元の白さとは滑稽(こっけい)なほどに差があった。夢の中の七歳の私を見る現実の十六歳の私はそれを可笑(おか)しく思ったけれど、七歳の私と対峙(たいじ)している七歳の有栖川は、現実の有栖川の大人びた表情で、愛おしいというように目を細めていた。
 美しい、なんということもない夏の一日だった。
 それから私たちは私の家へ行き、玄関から入ればいいのに、有栖川が止めるのも聞かず彼を巻き込んで椿の木に登った。二階にある私の部屋の窓に面した椿の古木の、一等太い枝にはこれまた太いロープがぶら下がっている。私の父が、私たち姉妹が遊べるようにとしたことだ。
 椿の枝は高いところにあって、子どもの背丈では届かなかったのだけれど、そのロープを伝い上ることができれば枝に登ることは可能だった。
 私は「玄関から入ろう」と常識的な発言をする有栖川を無理矢理押しきり、結局ふたりで椿の木を上って、窓から私の部屋へ入った。住み慣れた自分の家、なのにはじめて来た場所のような――探検しているみたいな高揚感が快かった。私は言った。
「有栖川、ここのロープ、ずっとこのままにしておくよ。そうしたらいつだって、みんなが寝ちゃった夜でも私のところに来られるよ」
 それは単純な思いつきだった。幼い日に結婚の約束をするような、無邪気な、罪のない提案だった。
「いつでも来ていいからね」
 私が言うと、有栖川は一瞬驚いて、それから、
「そうしたい」
 と言った。言葉の響きがあまりにも切実だったので、私は少しうろたえた。
「いいの?」
 信じられない、という表情をしていた。私は、有栖川がひどく真面目に訊き返してきたことに面喰らって、それでも「いいよ」と頷いた。うん、いいよ、いつでも来て。
「ありがとう」
 有栖川は呟くように言った。
 有栖川は、どんな気持ちでありがとうと言ったのだろう。
 彼が何を求めていたのか、知るには私は幼すぎた。
 目が覚めると私は、母に「明日からちょっと有栖川の家に泊まり込んでくる」と宣言した。
「はあ」
 と母は言い、のんびりと、
「あんたが行くよか、有珠くんがうちに来た方がいいんじゃないの」
 と返してきた。
「うん。でも、有栖川は、今はあっちにいる方が大事なんだよ、きっと。――有栖川のために」
 その日のうちに泊まるのに必要な道具、制服や教科書も含めたお泊まりセットを準備し、リュックに入れて背負って有栖川の家を訪ねると、有栖川は彼には珍しいほど驚いた表情を見せた。有栖川はあまり感情を表に出さないので、こんなふうに露骨(ろこつ)なのは珍しい。それに私が驚いていると、有栖川は参ったなあ、と首筋を擦った。
「彼方」
「私、しばらく泊まる。それで手伝う」
 それだけ告げると、何か言いたそうにしている有栖川を放っといて、私はずけずけ家に上がり込み、さっさと荷解きをすませて布団を干し、近くにバケツと雑巾(ぞうきん)があるのを見つけると、それを手に取った。有栖川は唖然(あぜん)として私を眺めていたけれど、私に出ていく気がないのを感じ取ったのか、やれやれといった感じで部屋の奥へと引っ込んでいった。
 本当は、私だって言われた通りにそっとしておくつもりだったし、その方が絶対にいいと思っていた。
 でも、あの夢。
 なんだかこわかった。
 こんなタイミングであんな夢を見たことには、きっと何か意味があるのだ。有栖川のことを放っておいてはいけない、何かそんな意味に、恐ろしいまでに迫られている気がした。
 部屋の中央に立って周囲を見回す。まだ、そこら中におじいさんの気配が残っていた。有栖川はそれがつらいのかもしれない。古くなってやわらかくなった革のような懐かしい空気が漂っていて、それは長年の蓄積によるものなのだと私にもはっきりとわかる。
 部屋の片隅にはおじいさんが使っていた家具や、捨てるつもりのない遺品がダンボールに収められてきちんと積み上げられていた。開け放たれた押入れは空っぽで、雑巾がけがしてある。手伝うと言って出てきたし、そのつもりだったけれど、私ができる手伝いなどいくらもないだろうことがすぐにわかった。有栖川はものすごい速度と正確さでもって遺品の整理を進めている。
 そこに流れる乾いた埃の匂い、窓から射し込む薄日、おじいさんにもおじいさんが遺した品にも直接は関係のないそんなものまでが、有栖川のおじいさんへの愛情を映して静かに哀しんでいるように見えた。
「また泣いてるの?」
 笑いながら、後ろから有栖川に尋ねられた。からかうような口調だったので、私も少し笑いながら「泣いてないよ」と答える。涙を拭いてふり向くと、有栖川は片手に一体ずつ、あの姫だるまを持っていた。
「あ」
「え?」
「それ」
 姫だるまを指差す。有栖川は、ああ、これ、と掲げて見せてくれた。私は傍に駆け寄り、彼の手もとを覗き込んだ。
「これ。私、はじめてこれを見たとき、ちょっと怖かった」
「そうなの? 見たことあったっけ」
 問いには曖昧に頷いて、誤魔化(ごまか)した。勝手に見てしまったことへの罪悪感というよりも、昨夜見た夢が鮮明すぎたせいだった。
「姫だるまって松山(まつやま)のおみやげだよね。おじいさんと一緒に行ったことがあるの?」
「いや……」
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