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 私の何気ない質問に、有栖川は歯切れ悪く言葉を濁した。言い難そうに口篭(くちご)もって、迷いながら口を切る。
「お父さん、と、お母さんからのお土産(みやげ)、らしい」
 私は危うく頓狂(とんきょう)な声を上げてしまうところだった。確かに、有栖川だって木の股から生まれてきたわけではないだろうけれど、彼の家族はおじいさんだけというのにあまりにも馴染んでしまっていて、お父さんお母さん、というのがなんだか妙な響きに聞こえた。
 それは有栖川もそうらしい。お父さん、お母さんという発音の仕方が如何(いか)にも心許(こころもと)なかった。
「僕はよく知らないんだけど、僕のお母さんていうひとは、もともとは京都のひとらしいんだ。お父さんはここのひとなんだけど。ふたりとも偶然、松山へ旅行しているときにそこで知り合って、結婚に至ったらしいよ」
「すごい確率だね」
「うん……」
 有栖川は頷きながらも、それをよくはわかっていない様子だった。想像が追いつかないのかもしれない。お父さん、お母さんと言いながら、彼にとってはそれは恋愛小説を読んでいるような感覚なのかもしれなかった。
「一応、形見っていうことになるのかな。実感はまるでないけど」
「どうするの?」
 まさか捨てるつもりではないだろうけれど、念のために訊いてみた。有栖川は少し考え込んでから、
「せっかくだし、前と同じように飾っておくよ。僕はよくわかってないけど、それでもこれがお父さんとお母さんの形見であることは変わらないし、……じいさんも大事にしてたから」
 掃除するのに邪魔になるから、こっちに移動させようと思っただけなんだ、と有栖川は言った。そこに至って、私は彼が遺品の整理と同時進行で、家中の大掃除をしていたことに気づいた。この家に染みついた哀しみや寂しさ、埃と一緒に蓄積されてきたそういうものを掃き出してしまうためだろうか。でも、そんなことくらいでは、有栖川がこれまでずっと味わわされ、身体に染み込まされてきた空虚を拭いきるのは難しいように思えた。
「晩ご飯はなんにしようか。食べたいものある?」
 有栖川が訊いてきたので、それは私の台詞だよ、と私は唇を尖らせた。晩ご飯まで有栖川に作ってもらっては、何をしに来たのか本当にわからなくなってしまう。
「私が作るよ」
「今、胃薬を切らしてるんだ」
「失敬な奴だなあ」
 姫達磨を抱えたまま、有栖川は笑った。どこか中身のない微笑だった。いつかも見たあの微笑。私はきっと、この表情を幾度となく目にしている。
 感情が伴わず、表情だけが勝手に出たような(うつ)ろな印象。が、次の瞬間ふと意識を取り戻したかのように、
「ああ、でも、ホットケーキなら食べたいな」
 と今度は心の中まで愉快そうに付け足した。
「ホットケーキ? 夜に?」
「彼方だって言うじゃないか、晩ご飯はフルーツポンチがいいとか」
「……わかった」
 頷いて私は(きびす)を返し、台所へ向かった。
 台所には何もなかった。ここ数日間、旅行か何かで家を留守にしていたかのように、冷蔵庫も小さな食料庫も空っぽで、僅かに調味料とトマトときゅうりがあるばかりだった。
「ほんとにちゃんとご飯食べてたの?」
「うん。一応」
 あまりにも滑らかな返答だった。有栖川に真実を言う気がないのは明らかだったので、私はそれ以上何も言わず、財布だけ持って材料を買いに行くことにした。
 引き戸を開け、門をくぐって有栖川の家の敷地から出ると、途端に空気が軽くなったかのように感じられた。昼下がりの初冬は明るく、やわらかく、ふわふわの毛布で世界がくるまれているみたいだ。
 ふり向いてみて、有栖川の家の静けさ、寂寥感(せきりょうかん)のようなものに愕然(がくぜん)とする。
 有栖川はずっとあそこにひとりきりで生活していて、そしてこれからも生きていくのだ。
 薄暗い部屋の、蒼い影に染まった有栖川の頬を思い出す。伏せた睫や、寂しそうに見える眉宇(びう)を。



 スーパーでホットケーキミックスを探して歩いていると、「一奈さん」と声をかけられた。
「柘植くん」
 や、と挨拶しながら、買い物かごを提げた柘植くんが、にこにこしながら寄ってきた。あんまり嬉しそうにしているのがなんだか尻尾を振る犬みたいで、私は小さく笑ってしまった。
 やわらかそうな茶色の髪がふわふわした柘植くんは見るからに健康そうで、朗らかで、私が今までいた世界とは別の世界のひとのようだった。
「一奈さん、珍しいとこで会うね」
「うん。普段は私はここには来ないんだけど、今ね、有栖川の家にお泊まりしてるの。有栖川の家からはここがいちばん近いんだ」
「泊まってるの?」
「うん」
 私は正直に首を縦に振る。柘植くんだからそうした。他のひとだったら、どんな反応をされるかとか、説明が面倒くさくて避けただろう有栖川の家に泊まっているという事実も、柘植くんには抵抗なく告げられた。柘植くんには受け入れるというよりも受け流す軽さや明るさがあって、私はそれをとても快く思っていたし、有栖川は――救われているのではないだろうか。
 そのままなんとなく並んで歩いた。私はその途中で見つけたホットケーキミックスと牛乳を持って、柘植くんはお肉やら野菜やらを選びながらかごに入れて。
 不意に柘植くんが口を開いた。
「有栖川は、大丈夫?」
 すぐには答えられなかった。
 大丈夫だというのがどんな意味か、だとか、大丈夫だと答えれば嘘になってしまいそうだとか、そんなことではない。言葉少なに尋ねた、他にどんな言葉を持ってきたらいいのかわからないといった困惑が多分に滲んだ柘植くんの一言が、思いのほか私の心の深部に触れたからだった。
「……大丈夫。だけど、全然大丈夫じゃないよ」
 私は答えた。柘植くんは、そっか、と短く言って黙る。
 スーパーの陽気な音楽が、まるで場違いなように私の耳に響く。場違いなのは私かもしれないと思いながらレジを抜け、スーパーを出た。
「柘植くんは、有栖川と何か話す? ふたりでいるときに」
 訊いてはいけないかな、と思いながらも訊いてみた。有栖川は何とか学校に来るようになっていたけれど、まだまだ休みがちで、私を不安にさせていた。
「特に何も。ひとりになりたい、みたいなこと言ってたから、かまってないよ」
「そう」
「うん……でも、やっぱり、一奈さんは特別なんだなあ」
「何が?」
 夜の訪れは早く、さっきまで明るかった空はもう闇が広がりはじめていた。時間の経過と共に鋭さを増す風が、私の長い髪を(さら)っていく。透明な藍色に(ひた)された東の空に、白い星が一粒落ちていた。
 通り道の公園に差しかかったところで、柘植くんは言葉を探しているように肩を(すく)める。
「うん――だって、ほら。ひとりになりたいけど、でも、一奈さんは傍にいてもいいなんて、特別な証拠じゃない?」
「そうかな」
「そう思うよ」
 私の足は段々と遅くなり、やがて止まった。数歩先を行って柘植くんも立ち止まり、ふり返る。夜気に満ちはじめた周囲は暗く、寒かった。
 私は有栖川の家、そしてその空気を思い出した。ああ、あの家は、あの空気は、なんて柘植くんと差があるのだろう。
 目の前の柘植くんは、あたたかくて、大きな、開かれた自由に守られている気がした。だから彼自身からも、そんな感じが見受けられる。
 柘植くんを支える根元は力強く(たくま)しくて、誰かに寄りかかられても揺るがない。
 それなのに。
 有栖川は、どうしてあんなにもひとりきりで寂しいのだろう。どうしてあの家は、あんなにも空虚なもので満ちているのだろう。
 有栖川の一面、或いは数面を、長く一緒にいたというだけで他のひとよりは多く知っている私には、――ついさっきまでその真っ只中にいてその匂いを感じていた私には、柘植くんは冬の最中(さなか)のストーブのぬくもりのような幸福に包まれているように見えた。
 だからといって、柘植くんが苦労知らずだというわけではないのだろう。ただ、このひとの人間性、持って生まれた特性が、彼をひどく鷹揚(おうよう)に見せる。
 柘植くんは不思議そうに、でも私を不安にさせないためか、それともそれが自身の常なのか、微笑してくれていた。どうしたの、とやさしく問いかけてくれる。私は空いている手を伸ばして、柘植くんの手を握った。
 冷たい空気に(さら)されてなお、あたたかいてのひら。
 私は無言のまま、繋がれた私の手と柘植くんの手を見比べた。
 有栖川の家は抜け殻みたいだ、と思った。
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