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 ぽっかりと空洞の。
 それでも何故だか、それは変わる、変えられる、と私は思った。私が住むことで変えられる、と。
 私が持つ私の身体、髪の毛やてのひらや足、生きて呼吸している皮膚、そんなものがあの家の中に存在する、そのことにたいへんな意味があるような気がした。自意識過剰だとか、そんな単純な(うわ)(つら)の話ではなく、何かにそれを信じられている感じがした。
「しょーがないなあ、ほんとに」
 柘植くんが呟いた。私が顔を上げると、柘植くんは、
「目、(つむ)って」
 と言ってきた。
「め?」
「うん」
「……? うん」
 言われた通り、軽く目を閉じる。遠慮がちに、柘植くんの指先がほっぺたに触れた。
「有栖川が――」
 静かな調子で、柘植くんが言葉を(つむ)ぐ。私は目を閉じたまま、黙ってそれを聞く。
「有栖川がいつか困るようなことがあったら、そのときは、これを一奈さんが渡してあげて。――差出人は匿名で」
 (ささや)くような声、思わず目を開きかけて。
 一瞬。
 ほんの一瞬、唇の端に何かが触れた。
 驚いて目を見開く。それが柘植くんからの――私に、というよりは有栖川に対しての――キスだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
 ――君がいつか逆境にいることがあったら、母が僕にしてくれた(はなむけ)のキスを君にしてあげるようにと――目を閉じたまえ、ジンクレエル。
 柘植くんが口にしたのは、ヘッセの著作、『デミアン』の一節だった。とても大切な言葉だった。そしてジンクレエルは目を閉じ、彼からの――彼の母からのキスを受け取るのだ。
 ――でも。
「……どうして?」
 少し高い位置にある、やさしい鳶色の瞳を見つめる。ほんの刹那体温を伝えられた唇の端を、冷たい風が通り過ぎていった。
「柘植くんから直接には、してあげないの?」
 近くにいるのに。
 ジンクレエルとデミアンほどの物理的距離を、ふたりは持たない。
 柘植くんは笑った。
 俺じゃ駄目なんだよ。
 言葉を失う。柘植くんは本当に、有栖川を好きなのだ。柘植くんが見せた笑顔、ほんの少し痛そうな笑みに、彼の想いが垣間見えた気がした。そうでなければ、こんな。こんな――
 ――だって、キスを受け取って以後ジンクレエル自身の身に関して起こったことは、すべて痛かったのだ。
 包帯をするのは痛かったのだ。
 口に出さないだけだ。柘植くんは有栖川を、こんなにも好きだ。それがわかって、胸が苦しかった。私とおんなじだ、と思った。



 ホットプレートの電源を入れて、ややもしないうちに、古い日本家屋の中はホットケーキの甘い匂いで充満した。私は匂いに触発されて、普段から旺盛(おうせい)な食欲を爆発させ、蜂蜜をかけたりバターを塗ったりして何枚も食べたけれど、「ホットケーキを食べたい」と言った当の本人である有栖川は、
「この匂いと、彼方の食べっぷりを見てるだけでおなかがいっぱいになる」
 と言ってあまり食べなかった。
 それでも、気のせいかもしれないにしても、有栖川の顔色はよくなったように見えた。私の他愛もない話に、声を立てて笑ってくれた。有栖川は何も言わなかったけれど、きっと、彼はこんなふうに誰かと食事したり、会話したりすることに飢えていたのだと思う。
 食事は、ひとりでしても楽しくない。何かを食べて「おいしい」と感じるためには、誰と食べたか、そのときの雰囲気はよかったか、風景は美しかったか、そういう味とは関係のないものがとても大切なのだという。それらが欠けていると、どんなに美味しいものも、美味とは感じられないという。
 おじいさんを失ってからの有栖川には、それらが決定的に欠けていた。でも少なくとも今は私がいて、笑って、心のごく小さな一部分だけでもあたためることができる。
 私は変えられる、とても大切な何かを変えていける。
 ここは抜け殻で、空っぽで、寂しい。でもそれだけではないのだ。何か新しいものを作れる、作って育てていける。片付けられ、雑巾がかけられて、電気につやつやと照る黒い板の廊下を愛おしく眺めながら、私は思った。
 冬の寒い風の中に、この家の窓から漏れ出た明かりはあたたかく細い道を照らしているだろう。中からは、時折笑いさざめく声が聞こえるだろう。それが幸福というかたちを成しているように、外から見えたらどんなにいいだろう。
 たとえ中心にそんなに簡単には溶けない氷があったとしても、そう見えることは、将来の可能性を(はら)んでいるという意味を含めて、素晴らしいことに違いなかった。
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