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エコー






 彼方(かなた)は基本的に寝つきがいい。おやすみ、と言ってから五分と待たずに寝息を立てる幸せな性分だ。それなのにその日は、珍しくいつまでもごそごそと落ち着きがなかった。何度も寝返りを打ち、時折深い溜息をつく。六畳の和室は真っ暗な闇に閉ざされ、その分音が鮮明に彼女の現状を伝えてきていた。
「彼方」
「なあに」
 幼い子どものような反応だった。
「そろそろ帰らなくていいの? 心配されない?」
 彼方が泊まり込んで、今日で五日になる。夜は毎日、手を繋いで眠った。小学生以来のことに僕は正直結構照れたのだけれど、彼方は一向に気にしない様子だった。
 闇の中、黒い天井を見つめたまま尋ねると、彼方は特に感情を込めない声で、「邪魔?」と言った。
「いや。そういうんじゃないよ」
「そう? ならよかった。うちは大丈夫だよ、有栖川(ありすがわ)と一緒だから、お父さんもお母さんも安心してるみたい。そろそろ有栖川がそういうこと言い出すかなと思って、今日昼間に電話してみたんだけど、お母さんに、あんた有珠(ありす)くんに迷惑かけてないでしょうね? って言われた。私じゃなくて、有栖川を心配してるみたいだよ、みんな。私、暴れん坊だから」
「そうなんだ」
 いいのだろうか。仮にも一人暮らしの男の家に年頃の娘ひとりを預けているというのに、反応がそれで。
 そんなふうには思いながら、有珠くんに迷惑かけてないでしょうね、と言ったらしい彼方の母親の呆れたような、心配そうな顔がありありと目に浮かんだ。一奈(たかな)家いちばんの暴れん坊にやきもきする様子を想像して、僕は思わずふっと笑ってしまう。
 毎日毎日、学校から帰っては為されていた片付けは、こつこつと順調に進んで確実に終わりに向かっていた。祖父がもともと持ち物の少ないひとだったこともある。
 ――順調に進むようになったのは最近だ。最初の頃なんかは、遺品の整理どころの話ではなかった。涙も出ないほど呆然として時間だけが過ぎていく、無為な日々。けれど、時間の経過によってしか自分を落ち着かせられないものもある。それを知って、泣いて認めて、そしてやっと作業らしい作業に取りかかりはじめたのだった。
 今は、大掃除と連動してやっているというのに、そんなことを感じさせないほど作業は滞りなく進んでいる。
 ふと、順調に進む整理の中で、祖父の死に対する覚悟を無意識にでも長年ずっと、祖父が生きて、まだ元気だった頃からしていたのではないか――そう考えることもあった。
 首だけ回して、影になっている彼方の横顔を探る。
 それは、彼方には言えないことだ。感受性の豊かな彼方、きっと僕が、たとえ冗談のようにでもそんなことを口にすれば、彼女は小さな涙の粒を次々に(こぼ)すだろう。
 ふう、と彼方が何度目かの溜息をついた。
「疲れた?」
「うん。少し」
 何もないがらんどうの部屋に声はよく響き、まるでホールにいるようだった。僕は仰向けに寝転んだまま、右隣の彼方の、やわらかな少し眠たそうな気配を肩で感じながら、目を閉じて家の中を思い返す。ある一室の片隅に隙間なく並べられたダンボールや、その中にまるで(あつら)えられたかのようにきちんと収まっている祖父の遺品、ただの空洞になってしまった押入れ、雑巾がけをして(ほこり)の払われた木の目。
 何もない家は、僕が片付けはじめたことによって、さらに何もない家になろうとしていた。
「もうすぐ、片付け終わるね」
 眠たい声で彼方が言った。
「うん。最後は大仕事だよ。二、三日かかるかもしれない」
 僕の台詞(せりふ)で最後の大仕事の見当がついたらしい彼方は、意外そうな声を上げた。
「図書室もやるの?」
 ここまできたらやるよ、と僕は笑いながら答える。
 図書室と彼女が呼ぶのは、六畳の和室二部屋をぶち抜いて使われていた祖父の書斎と、僕が生まれる前に増築されたという、こちらは本当に書斎目的の洋風の部屋のことだ。書痴(しょち)と呼ばれた僕の祖父の蔵書は多い。その三部屋に置かれた本棚にも収まりきらずに、(あふ)れた本が床に積み上げられ、足の踏み場もない状態と化していた。確かに図書室と呼んで差し支えない量ではあるような気がする。
 そこは、先に先に――と片付けるのを延ばしていた場所だった。
 勿論、量的な問題もあるし、それは理由としてとても大きい。今回の片付けはいつも通り玄関に近い部屋からはじめたから、書斎が玄関から最も遠いところに位置しているというのもある。でもそれ以上に、その部屋の片付けは、しにくかった。祖父がもっとも長い時間を過ごした部屋。医師の側ら本を書いていた祖父は、いつも和室の隅に設えられた文机(ふづくえ)で原稿を書いていた――それは僕が生まれる前の話、だけれど。
 何か、線を引いてしまうような気がしていた。
 書斎に限らず、片付け、遺品の整理そのものが終わってしまうことに対する想い、かもしれない。整理され整頓された部屋が、迫ってくるような気がした。片付けが終わるのと同時に僕の祖父に対する想いもどこかに片付けられて、一線で画されたように遠くなり、哀しんだこともまるで嘘か幻だったかのように思うようになってしまうかもしれない。
 僕だって、ひとの感情がそんなに単純でないことはわかっていた。ただその不安、恐怖にも近い不安は、どうしようもなかった。祖父が、さらに遠くなってしまう気がしていた。
「ねーえ」
「うん?」
「あのさ、柘植(つげ)くんを呼ばない?」
 唐突に、彼方が提案した。
「柘植?」
 思わず鸚鵡返(おうむがえ)しにしてしまう。
 柘植は、僕が自身を()()けにして付き合える、彼方を除いては唯一といっていい友人だった。彼には周囲を押しきる強引さや派手さはなかったけれど、からりと軽快な態度やなんでも水に流してしまうような性質が、僕を安心させた。
 そういえば、最近柘植とあまり話をしていない。
 ひとりにしてほしいんだ、と(つぶや)いた僕を尊重してくれているのだろう。彼は干渉しすぎることをしない。
 ただ、彼方が柘植の名前を出したことで、不意に、彼の初夏の太陽のような真っ直ぐなあたたかさを懐かしく思った。
「柘植くんなら力持ちだし、働き者っぽいし、助かると思うよ」
 力持ちと、働き者というところには同感だ――けれど、何故突然柘植の名前が出たのかわからない。僕がそう告げると、彼方は、「会ったんだ」と短く言った。
「そりゃ、会うだろうね」
「違う。学校でじゃないよ。泊まりにきた最初の日にね、ホットケーキのもとを買いに行ったとき、たまたま会ったの。それで、ちょっと話したんだ、有栖川のこと」
「僕のことなんか、何を話したの」
「――柘植くん、心配してたよ、有栖川のこと」
 僕の質問は無視して、結論だけを言った。
「あんまりたくさんは(しゃべ)らなかったけど、でも、柘植くん、有栖川のこと考えてたよ」
 なんと言ったらいいのか、思いつかないようだった。彼方は既に小説で収入を得ているのだけれど、それとは信じられないくらいの幼い言い回し、言葉の選択に苦心している様子で、たどたどしく、柘植が如何(いか)に僕を心配しているかを並べた。
 聞きながら、ふと笑う。
「何?」
「いや……彼方は、柘植のこと好きなんだね」
 正直な感想を述べた。すると彼方は、僕がきちんと話を聞いていなかったと判断したのか、ぷっくりと頬をふくらませた――のは見えなかったが、そうしたに違いない。
「私が言ってること、ちゃんと聞いてた?」
「ごめん。聞いてたよ」
 慌てて笑みを引っ込める。彼方は、もう、と憮然(ぶぜん)としていた。()れてくる声を微笑ましく聞きながら、僕も久しぶりに柘植に会いたくなってきた。
「そうだね。――柘植に言ってみるよ」
 口に出すと、目的が急激に現実味を帯びてくるのがわかった。彼方は、うん、ありがとう、と呟き、すぐにそれも寝息に変わった。



 翌朝の空は美しく晴れ上がっていた。彼方は昨夜寝つけなかったせいか、なかなか起き上がってこなかった。僕はいつも通り天気予報を見、洗濯をして庭木に水をやり、朝食を作った。出来上がる頃にはだるそうにしながらも彼方が起きてきて、寝癖のついた前髪を笑ったりもした。
 窓硝子(まどがらす)から、清潔な朝の陽光が一筋の線になって射し込んできていた。
 何もない、平和な朝。
 学校に着くと始業時間まで大分時間があり、今日は弓道部の朝練も休みだというのに、柘植は既に教室にいた。
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