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「柘植」
 声をかけると、読んでいたらしい本から顔を上げ、まるでいつも通りに破顔する。
「おう。おはよ」
「おはよう」
 ほっと心が(なご)んだ。教室には他に誰もいない。早朝の教室は明るくて、遠くから吹奏楽部の楽器の音や、運動部のかけ声が聞こえてきたりするけれど、それすら(もや)に溶け込むようで、学校自体がまだ眠っているようだ。
「あんまり一奈(たかな)さんに心配かけるなよ」
 軽く、言った。鞄を下ろしている僕に、柘植が。
 小さく笑ってしまった。柘植といい、彼方といい、どうしてこんなにも、ひとに対する感性――のようなものが近いのだろう。
「うん」
 (うなず)き、試しに、
「柘植は彼方のことを好きなんだね」
 と言ってみた。柘植は眉を(ひそ)めて複雑そうな表情を見せる。彼の感情表現は大らかで素直だ。
「何言い出すんだ、お前は」
「あはは、照れてるの?」
「バカたれ」
 ばつが悪そうにしている。柘植でもこんな顔をするのかと、僕は目を細めた。そうして、こういうことが大切なのかもしれない、と思った。他愛もない会話、今朝見た青い空、流れていく雲、彼方の寝癖。笑い飛ばしてしまえる、なんでもない、取るに足らないくだらないこと。ぽっかりと穴を空けた心の片隅に、あたたかい何かを流し込んでくれるものが。
「ねえ柘植、屋上に行かない?」
「何しに」
「何も」
「私も行くっ」
 いつの間にか来ていた彼方が、元気に言った。



 屋上へと続く重たい扉を開ける。開いた途端に強い風に(おもて)を張られ、僕らは一様に目を(つむ)った。彼方の長い髪が風に踊る。
 そこにはやっぱり、誰もいなかった。
「あー、さむーいっ。気持ちいいねーっ」
 うんと伸びをして、彼方はぱたぱたと小走りに駆け出した。一奈さん元気だねえ、と柘植はのんびり苦笑している。
 見上げた空は快晴だった。耳が痛むほどの青空だ。ひんやりとした空気に頬を撫でられる。
 冬の空は澄んでいて、裸の黒い木々が寒そうで、けれど(りん)と立っていて、妙に寂しい気分にさせた。下方からは、野球部と陸上部の声が聞こえてくる。
 うろうろと離れたところへ行ってしまった彼方を横目で眺めながら、僕と柘植はフェンスに(もた)れた。
 わかっている。彼方は気を遣ったのだ。
 柘植はそのままずるずると座り込んだ。ああ、寒いなあ、熱いお茶が欲しいなあ、などと言っている。
 快い風が吹く。
 日陰のない、どこまでも明るい風景。白いコンクリート。
「きれいだね――」
 はっきりとした意志をもって口にした僕のその声も、高い蒼穹(そうきゅう)に吸い込まれていった。柘植が座り込んだまま僕を見上げる。僕はフェンス越しに白いグラウンドを眺めながら、いい天気だと呟く。
「飛び降りたら気持ちよさそうだ」
「お好きにどうぞ――」
 かしゃん、とフェンスが鳴る。柘植が頭の後ろで手を組んで凭れ直したからだった。僕は笑う。
「止めてよ」
「――冗談でもそんなこと言うなよ」
 僕の言葉のどちらにかかるのか、わからない言い方だった。飛び降りたら――に対して言ったのか、止めてよと僕が(うなが)したことに対してか。
 どちらでも構わなかった。
 どこか遠くで鳥が鳴いている。
 僕がくすりと笑いを漏らすと、柘植が怪訝(けげん)そうな顔をした。
「何」
「いや」
 離れたところでは、彼方が下界を眺めてくるくると表情を変えている。ひらひらと舞うスカートが蝶々みたいだ。
「柘植は何も言わないよね」
「何か言ってほしいことがある?」
「どうだろう。いや……そうだな。おかしいね。僕は君のそういう、こっちが望まない限り何もしてこないっていう部分に助けられて……実は、甘えてるところも結構あるのに」
「やっぱり何か言ってほしいことがあるんだな」
 そうは言うのに、その先を追及する素振りは見せず、柘植は軽やかに笑った。明るい、屈託(くったく)のない笑顔が冬空に映えた。(まぶ)しいほどだった。
「有栖川、柘植くんっ」
 彼方が数歩離れたところから叫ぶ。
「授業、出たくなくなっちゃわない?」
 弾けるように笑う。僕は目を細める。幼い頃から、ずっとずっと僕を救い続けてきた笑顔。
 無邪気な仕草、飾り気のない表情。
 胸が痛い。
 そうだね、と叫び返すと、柘植が、
「一奈さんを好きなのはお前じゃないか」
 と揶揄(やゆ)するように言った。
 好き。
 僕が、彼方を。
「勿論だよ」
 当たり前のことすぎて、今まで意識したことなどなかった。



 空は青く高く澄んで果てしなく、空気は乾燥して、本の虫干しには最適の天候だった。寒風を快く受けながら、彼方と柘植と一緒に家中の(ふすま)という襖を開け放す。
「すごい、ひろいっ」
「ほんとだ。さむいなー」
 地続きになった部屋はがらんとして、声も気配も筒抜けになった。風が吹き抜け、空の青が染み込んでくるような清々しさ。僕は(にわ)かに元気を得て、少しやる気が出てきた。
 まず、処分してしまう本を選び出すところから作業ははじまった。
 祖父のあまりに多い蔵書は本棚から溢れ、本棚代わりにされている押入れからも溢れて、床をも侵食している。和綴じの本からハードカバーの洋書まで、幅は広い。百冊や二百冊ではないのだから、もう開かれなくなって久しい書物を探すだけでも重労働だ。
 欲しい本があったら持っていってもいいよ、医学関係のもの以外は、と言って、妖怪関係のものは彼方に優先と付け加える。僕は大雑把な蔵書の整理を彼方と柘植に任せることにした。
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