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 書斎の洋室から出、僕はその隣に位置する和室へと足を踏み入れる。小さな文机と二段ばかりしかない本棚、資料として使われていたのだろう、本のびっしり詰まった、襖の取り払われた押入れ。
 壁に立てかけられた障子は白く、家具は黒く輝いて、主人の丁寧な手入れを思わせた。僕が思っていたよりも遥かに色濃く祖父の気配が残っている。
 僕は幼い頃、この部屋で祖父と一緒に寝ていた。祖父がはっきりとした寝息を立てていないのが不安で、夜中に目が覚める度に、口もとに手を(かざ)して呼吸を確かめていたことを思い出す。静まり返った空気、あの頃から何も変わっていない。
 僕は押入れの中の本をすべて取り出して、それらを部屋の隅に大きさ別に積み上げた。押入れを雑巾がけし、今度は同様に本棚に取りかかる。それを終えると、文机に歩み寄った。
 臙脂(えんじ)の座布団、机の上に置かれた、今は何も飾られていない青磁(せいじ)の一輪挿し。春には桜、夏には竜胆(りんどう)、秋には秋桜(コスモス)、そして冬には庭の椿がひっそりと花を誇っていた祖父の気に入りの一輪挿し。反対側にある筆立てには、万年筆が一本きり立っている。その前に、(すずり)と筆が置かれていた。祖父は書道も(たしな)んでいたのだ。
 それ以外には何も乗っていない机の上にそっとてのひらを置いてみる。ひんやりと冷たい、木のやわらかな感触。可笑(おか)しくなって、手を引っ込めた。こんなことをしても、祖父の体温を感じられる筈もない。
 整理整理と思い直して、文机の右側に備えつけられている引き出しに手を伸ばした。引き出しに触れるのははじめてだった。それは想像よりもずっと軽く、乾いた紙のような音を立てて引き出された。
 一番上の引き出しを開けたときだ。白い封筒が一枚、目に飛び込んできた。疑いようのない祖父の字、達筆な毛筆で、中央に「有珠(ありす)へ」と書かれている。
「有栖川、やっぱり有栖川がいないといいもんやら悪いもんやらよくわかんない。こっちに来てよ、そっち私がお掃除するから。……? ……どうしたの?」
 ひょっこりと顔を覗かせた彼方が、引き出しの中を見つめて固まっている僕を見つけ、不思議そうに首を傾げた。
「何、有栖川どうかしたか?」
 彼方の後ろから、柘植も顔を出す。黙っていると、ふたりは顔を見合わせて再度首を傾げ、ぞろぞろと和室に入り込んできた。文机の前に(かが)んでいる僕の後ろに立ち、手もとを覗き込む。
「手紙?」
「有珠へ? 有栖川宛だね」
「うん。そうみたい」
 有珠といったら僕しかいない、けれど内容になんの心当たりもなく、見当もつかず、僕は戸惑った。裏返してみたが、何も書かれていない。
「読まないの?」
 彼方が暢気(のんき)に尋ねる。
「うん――でも、この引き出しの中にあったんだ」
「それが?」
「ここの引き出しって、僕が絶対に触らないところだったんだ。禁止されてたわけじゃないけど……そもそもこの部屋って、小さい頃に寝るとき以外はほとんど入らなかったし、そういうところにあったものなら、多分これは簡単には僕に読ませたくなかったものなんだと思う。読んでいいのかな」
「有珠へって書いてあるんだし、いいんじゃないの。見つけたときに読まないでいつ読むの。ねえ?」
「俺に同意を求めるなよ」
「柘植くんしかいないんだもん」
 彼方らしい言い分だった。僕は迷う。有珠へ、と書いてある以上、僕が封を切ることには何の罪もないとは思うのだが。
「読んじゃ駄目だと思うんなら、そのまま封印すれば?」
「封印って?」
「燃やすとか、本に挟んで奥の方にしまっちゃうとか」
 そう言われると迷ってしまう。読まなければならないものだとしたら困る。それに、宛名はしっかりと僕を指し示しているのに、読まずに捨ててしまうなんて、とても不誠実なことに思えた。
「いや、読むよ」
 言って、僕は封を切った。
「私たち、いない方がいいよね?」
「いや、かまわないよ」
 中には、封筒と同じ純白の便箋が五枚ほど、丁寧に三つ折りにされて収まっていた。なんだろうと思いながら便箋を開く。縦書きのそこには、見慣れた毛筆の文字が、きちんと行儀よく並んでいた。間違いない、祖父の文字だった。
 有珠へ、という書き出し。

 私はこの手紙をこの書斎の引出しから移動させる心算(つもり)はないから、あなたがこれを読んでいるという事は、恐らく私の遺品の整理の最中であるでしょう。私がこの世を去ってから、一体幾日過ぎているのでしょうか。できれば、なるべく多くの日数が経過している事を願って止みません。
 あなたは物事の大きさを変える事無く、在りのままを測る事ができるという、素晴らしい長所を持って居ると思います。そう思うからこそ、私もこうして筆を取りました。
 私はあなたに謝らなければならない事が在るのです。あなたの父母の事に関してです。思えばあなたは、これまで私に自身の両親のことを尋ねるという事をしない子供でした。それが無関心から来るものだったとは思いませんが、あなたの本心が如何な所に在ったのか、知る(よし)もありません。只、()しこの手紙を読んでいる今、あなたの両親の事についてあなたが知りたいと思うのなら、このまま読み進めなさい。又、反対に、知らなくても良い、()(まま)でも良いと思うのなら、手紙を元の様に封筒に戻し、燃やしてしまいなさい。

 一枚目は、それで終わっていた。僕は(わず)かに逡巡(しゅんじゅん)する。
 僕が父母のことを祖父に尋ねなかったのは、確かに、無関心からではない。幼い頃はどうして僕にはお父さんとお母さんがいないのだろうとそれなりに不思議に思ったし、気になりもした。祖父にだって、まったく尋ねたことがないわけではない。けれどそのときに得た答え、僕の両親は共にもう死んでしまっているのだという答えで、僕は納得していたのだ。僕が尋ねたとき、祖父は確かにそう答えた。言い難そうにしながらも。
 それが今さら、なんだというのだろう。
 外には夕闇が迫りはじめていた。開け放した部屋部屋の間を、冷たい風が過ぎていく。夜が忍びはじめた家は暗く、夕陽を僅かに反射して(くれない)に染まり、不思議な色のせめぎ合いを(てい)していた。透明な(だいだい)、紅から、薄ぼんやりと藍色と暗色に姿を変える空、空気。
 僕はそろそろと便箋をめくった。

 私は、あなたに嘘を()いていた事を、先ず詫びなければなりません。
 あなたの父、母が交通事故で死んだというのは、半分は真実ですが、その半分は偽りでした。

 祖父の息子――つまり僕の父はまだ学生のときに母と知り合い、母はすぐに僕を妊娠したらしい。父は医学部に通う大学生、母は既に社会人として働いていた。母は山や川や海を愛する自由なひとで、妊娠が結婚とイコールとして結びつかず、また、当時父が住んでいた名古屋を窮屈(きゅうくつ)だと言って好まなかったという。だから、母といってもふたりは結婚はしていなかったかもしれない。それでも僕を妊娠し、出産し、それからしばらくの間は父と暮らしもしたのだが、やがて飽きたのか、
 ――こんな空の小さなところ、息ができなくて死んじゃうわ――
 そう言って出ていってしまったらしい。
 母が出ていったあと、父は幼い僕を連れて松山に旅行に出かけたそうだ。旅行が父の唯一の趣味であり、楽しみだったらしく、その旅行先で京都府出身の女性と知り合った。この女性が後に僕の義理の母になる。義理の母は気立てのやさしいひとで、僕をとてもかわいがり、愛してくれたらしい。そして僕が二歳になる頃、結婚。――が、すぐ後に交通事故に見舞われた。雨の日、ふたりして買い物に出かけた際のことだった。たまたま、悪天候だからと近所のひとに預けられていた僕だけが残り、祖父の元へと引き取られることになったのだった。
 父と祖父は、仲がよかったらしい。
 祖父の手紙には、父のこと、母のことが細かくびっしりと書かれていた。こまめに連絡を取り合っていたのだろう。父は実直なひとだったらしい。
 ただ紙面は、明るいものではなかった。すまない、今まで黙っていて、直接教えてやれなくてすまないと繰り返してあった。僕は指先で字面をなぞる。謝る必要なんかどこにもないよ。
 最後の一枚をめくる。驚いたことに、そこには僕が幼い頃家を出てしまったという実母の連絡先――住所と電話番号が書き連ねてあった。あなたが望むのなら会いに行くのも良いでしょう、と書いてある。最後にもう一度、すまなかったと謝り、元気でと結んで、手紙は終わっていた。
「なんて?」
 彼方が背伸びをして、(うつむ)く僕を覗き込む。
「うん……。なんて言ったらいいのかな……。ええと、今までずっとお母さんだって聞かされてきたのが実は義理の母で、実母は僕が小さい頃に家を出てしまっていたらしい。で、こっちは生きてるらしい」
「そうなの。お母さん、生きててよかったね!」
 面喰(めんく)らった。そう来るか。
 彼方はにっこりして続けた。
「じゃあ、お母さんだと思ってたひとは?」
「そっちは、ずっと聞いてた通り」
 僕が言うと、たちまちしゅんと項垂(うなだ)れる。
「そっか……」
 秒単位で変わっていく表情を、僕は複雑な気持ちで見つめた。
 手紙の内容には、確かに、驚いた。
 祖父がずっと僕に真実を告げなかったことに対して、ではない。実の母だと思っていたひと――そのひとに関してでさえほとんど記憶には残っていないし、両親共に顔も思い出せないのだが――が実は義理の母で、実母が別にいたということ。さらにその実母は、退屈な生活を嫌って父と僕を置いて出ていってしまっていたということ。まだ、生きているということ。その所在地が明らかで、会いにいこうと思えば、会いにいけるということ。
 でも、なんだか、違和感があった。
 どうしてこんなにも、心に響いてこないのだろう。
 まるで他人事のように、すべてが遠くぼやけた。ここに書いてあるのは紛れもなく僕のことで、僕の両親のことなのに、なんだか本を読んでいるときのような感覚だ。有珠という登場人物がいて、それを取り巻く父、母、義理の母がいて――。
 顔も思い出せない、欠片の実感すら湧かない実母の連絡先を呆然と眺めた。
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