back  |  next   
 彼方が言った。
「でも、有栖川には、遠く離れてても、顔も知らなくても、お母さんがいるんだね」
 遠く、離れていても。
 素直な言葉に胸が痛んだ。うん、と言おうとして、できなかった。声が喉に張りついたように出てこない。夫と子どもを捨て置いて姿をくらませた女を母と呼べるか、とか、そんなことではなくて――やっぱり、遠い。自分のことだという実感が、まったく湧かない。
 ああ、でも、どうしてだろう。
 (まぶた)を伏せる。手紙の四隅をきちんと(そろ)えて元のように三つ折りにし、封筒に戻した。
 ――指が震えた。
 手紙から流れ出た祖父の後悔、懊悩(おうのう)、そして僕に対する静かな愛情が、僕をゆっくりと取り囲み、僕の自由を奪った。喉の奥が痛んだ。
 柘植が、ぽん、と軽く僕の頭を撫でた。二、三度、よしよしと撫でる。柘植の力は結構強くて、頭ががくがくした。それを見ていた彼方が、封筒を持ったままの僕の手を取る。やわらかくて、小さなてのひら。
 どうしてだろう。
 泣きたい。
 泣く理由などない筈なのに。
 見ると、彼方の方が泣きそうな顔をしていた。彼方はすぐに僕の感情を自分の中に取り込んでしまう。僕が彼方に対して、そうであるように。
 柘植のてのひらも彼方の指先も、冗談にして笑おうとしたのに、できなかった。涙を(こら)えるのに、必死だった。



 泣きたい、という感情を()()ってくれるひとがいるのは幸せだと思った。ひとは生まれたときから天涯孤独で、それは変わらないのだけれど、そういうひとがいてくれることで救われる部分はきっと多い。
 僕は手を伸ばし、隣の布団を探った。気がついたらしい彼方が手を出したので、僕はそっとそれを握る。彼方はささやかに握り返してきた。
「有栖川」
「うん?」
「お母さんに会いたい?」
 とても大切なことであるような、重々しい口調だった。
「ちょっとでも、会ってみたい?」
 今度は(ささや)くような調子だった。僕は少し考えて口を開く。
「そういうのは、あんまりないな。正直、僕はお父さんのこともお母さん――義理の母親のこともほとんど覚えていないし、実の母親に至っては存在すら知らなかった。今日はじめて知ったんだ。ああ、そうだったのかって……薄情かもしれないけど、本当に、感想はただそれだけだよ。実際はどうあれ、僕にとってはじいさんだけが家族だったし、今もそういうふうにしか思ってない」
「そっか」
 それきり彼方が黙ったので、僕も黙った。てのひらの中にある彼方の手があたたかくて、ああ、彼方はもう眠たいのだな、とぼんやり考えていた。
「有栖川、お母さんのこと気にならないの?」
 しばらくの沈黙のあとの声は、少しだけ躊躇(ためら)っていた。執拗(しつよう)かと気にしているのだろう。
 僕は一度瞑目(めいもく)し、再び開いて、
「うん。あんまり。実感が湧かないんだ、自分にお母さんがいるっていう。僕の家族がじいさんだけ、というのに慣れ過ぎてしまっていて。たとえばもし、今、実の母親が僕の前に名乗り出たとしても、僕にとってそのひとは僕の母親を名乗る女のひととしてしか認識されない。勿論これは想像の域を出ないから、多分そうだろうっていうことだけど。――不思議なんだ、今でも。僕にお母さんがいるっていうことが、まだそのひとが生きて、どこかで生活しているっていうのが」
「うん」
 神妙な調子で、彼方は頷いた。
「でも」
 努めて明るく、僕は言った。
「旅行に行くのはいいかもしれない」
 自分で言って、うん、と言い聞かせるように頷いてみる。
「どこか、知らないところへ行って、珍しいものを食べたり、知らない布団で寝てみるのは、ちょっと憧れているから。やってみたいな」
 もう、祖父の死に怯えて、この家を離れることができないなんていうことはないのだから。もう怯えなくてもいいのだから。
 ――とは言わなかったけれど、彼方に、僕の声にならなかった声が届いたのがわかった。はっきりとした強い意思を持って、彼女は、
「うん。そうだね、どこか遠いところへ行こう。一緒に」
 と大切そうに言ってくれた。
 静まり返った空間、耳の奥に昼間聞いた音が蘇る。本の掠れた紙の音や、柘植の困った声や、彼方の笑い声なんかが。
 ――引き出しを開けたときの音が、鮮明に。
「私はね」
 うとうとと、夢の狭間(はざま)にいるような声だった。
「有栖川のこと家族だと思ってるし、私の家族も、有栖川はもう家族だと思ってるよ」
 彼方は続けた。
「だから、お父さんもお母さんも、私が有栖川の家に泊まったり、こんなに長い間ずっといたりすることになんにも言わないんだと思う。小さい頃からずっとそうだった。なんにも、無理して頑張らなくても、有栖川は、有栖川もおじいさんも、ずっと私の家族だったよ」
 彼方の声は眠たそうで、それでも、今言っておかなければ、と必死で口を動かしているのがわかった。
 僕は彼方の脱力した手を握った。
「明日、あの手紙は燃やしてしまうよ」
 僕の声はゆったりとした闇に呑み込まれ、やがて(ほど)けた。



 その夜は寝つけなかった。
 何度も何度も夜中に目を覚まし、寝入るのを諦めてぼんやりと天上を眺めていると、障子が蒼白くなっていることに気づいた。
 僕は隣の彼方を起こさないように注意しながら起き上がり、すらりと障子を開けた。黎明(れいめい)の、白くひんやりとした空気が流れ込んできた。心地よくて目を閉じる。早朝の道場の匂いに似ていた。冷たく湿った木の匂い。
 廊下に出、障子を後ろ手に閉める。東の空が明るくなって、甘い桃色に染まっていた。夕焼けと少し似ている。違うのは光線の具合だろうか。
 大気は冷え冷えと()(わた)り、辺り一面が湖の底のように静かだった。時折、高らかな鳥の声が聞こえる。
 僕は縁側のサンダルを突っかけて庭に出ると、大きく伸びをした。中途半端に起きたり眠ったりを繰り返していたからか、身体が硬くなっていて、肩がごきごきと鈍い音を立てた。縁側に腰掛け、朝を待つ。庭の木々が静かに呼吸しているのを肌で感じ取る。蝋細工のような椿の濃い緑の葉を、そよと吹く風が揺らしていた。庭がぼんやりと明るくなっていく。
 とんとん、と肩を叩かれた。
 ふり向くと、彼方が麦茶の入ったグラスふたつとおにぎりを乗せた盆を持って膝立ちになっていた。
「おはよう。早いね」
「うん。おはよう。なんだか目が覚めちゃった。隣に有栖川がいないから、ちょっとびっくりした」
 言いながら盆を僕の後ろに置くと、彼方は肩が触れ合うほど近くに腰を下ろした。冷たい空気と対比するように、僕の左肩にぬくもりが伝わってくる。僕は不自然な格好でふり向いて麦茶を取った。彼方が、おにぎりも食べてね、と言った。具になるものがなかったから、卵焼きを入れたの。
 その、なんでもないことに対するなんでもない台詞、彼方の体温にとても安心した。久しぶりに安堵(あんど)を味わったような気がしていた。
「彼方も、いつかは死ぬんだなあ。僕も」
 彼方がぴくりと身を震わせて反応した。
「死っていうのは、平等だよね。誰の上にも降る。順番だってわからない。僕らだって、次の瞬間に死ぬかもしれないのに、こうやってのんびりおにぎりを食べていられるなんてね」
「……生きているっていうのは、本当はものすごい幸運を一瞬ずつ手にしていることなのかもしれない。私や有栖川が今まで死に見舞われずにこうして生きてこられたのは、気がつかなかっただけで、宝くじが当選するどころのラッキーじゃないことなのかもしれない。若いからって、生き続けられるっていう保証はどこにもないのに」
 若いからって、生き続けられるっていう保証はどこにもないのに。
「……彼方よりも先に死にたいなあ。もう、じいさんのときみたいな思いをするのは嫌だな」
 僕が言うと、彼方はたちまち眉宇(びう)(くも)らせた。泣きそうに顔を(ゆが)める。そういうことを伝えたかったんじゃないのに、と表情が告げていた。
 back  |  next



 index