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「大丈夫だよ。正気だ」
 柘植は参った、と(あご)を擦った。「難しいな」と眉を寄せる。
 その様を、見て。
「――単なる、概念だ」
 僕は言った。
「ひどく、曖昧(あいまい)な。ひどく曖昧な概念のひとつだ。ああ、いや……そもそも概念は曖昧なものか。うん、とにかく、それは物事の普遍化を助け、定義づけ、普遍性を与えることを可能にする」
 柘植は困惑したようだった。頬に、そんなこと言われても、と書いてある。けれどしばらく(うな)ったあとでいつもの平静を取り戻した彼は、肩を(すく)めながら、
「有栖川にとっての意義は?」
 と、不敵な笑みを浮かべて問うてきた。さすがだ。
「なかなかいい切り返しだね」
「そりゃどうも」
「僕は君のそういう思考回路と眠たいときに右頬を(つね)る癖が大好きだ」
「……嬉しくない気もするが、そりゃどうも」
「どういたしまして」
 僕は笑い、頬杖をついた。
 僕にとっての永遠の意義。
 それは僕に、突き抜けた青い空をイメージさせた。
 眼球に痛みを覚えるほどの夏の青さ、眩しい入道雲――弾ける水の虹色を。
(そば)に」
 呟く。
(かたわ)らにあったら、どんなにいいだろう」
「――うん」
「と、夢想してしまった」
 自分で茶化すと、柘植は軽く声を立てて笑った。
「ちっちゃくて髪の長い幼馴染みを思い浮かべて言っただろ」
 僕は微苦笑して目を伏せた。
「どうしようもなく好きなんだなあ」
 柘植はあっさりと答えを出した。
 好き。
 柘植がいとも容易(たやす)く出した結論を、心の中で繰り返す。彼方を好き。でも、そんなことは今さらわざわざ確認するまでもないことだ。
 けれど。
 恋、という言葉を思い出す。
 好きという言葉に続く、恋というもの。
 僕は未だに、彼女に対する自分の想いにその名前をつけられずにいた。何か、それは違う――そんな一言で片付けてしまうような言い方は、決定的に違う気がしていた。そして僕がそう感じているように、互いの隣にいて馴染むのはお互いだけだと思っていること、けれどそれは恋というにはあまりにも明確すぎるという戸惑い、それらを彼方も肌で感じていることを知っていた。
 楽しいときも哀しいときも一緒にいて、いいところは勿論、嫌なところも、小さな癖まで知り尽くしていて――そのひとがいることで苦しむことも多いのに、それでも相手の自身に対する愛情を感じてせつなくなったりするのは、どうしてなのだろう。彼方の涙や想いが恐ろしいほどはっきりとわかって胸が苦しくなるのは、一体どういう決まりごとによるものなのだろう。
 窓の外、空を見上げる。
 弾けた水がもっとも美しくきらめく青さ。
「うん。確かに、彼方のことは好きだよ。すごく」
 声に出して言ってみた。
 薄っぺらなものになってしまうかもしれないと危惧(きぐ)したそれは、驚くほど大切に響いた。涙が出そうになってしまうほどに。僕は本当に、彼方でなくては駄目なのだと、静かに、狂おしく感じた。
 蒼い水に薄氷(はくひょう)が溶けていくようだった。
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