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完璧の日々






 暑い中、私は毎日有栖川(ありすがわ)の家へ通った。進学する気のない私には受験は遠くて、高校三年生の夏休みに宿題は少なくて、それこそ毎日が日曜日という過ごし方をしていた。細々と書いている原稿を持って有栖川の家を訪れ、(たたみ)の上でごろごろしながら書き進める。日によってはふたりで学校の図書館まで出向いたりする。有栖川が淡々(たんたん)と勉強している隣で、私はのんびりと原稿を書いていた。受験戦争真っ只中だとはいえ、まだまだ時間はゆったりと流れていた。
「すごっ」
「三十八位っ」
 柘植(つげ)くんと私は口々に言って、有栖川の全国模試の結果から顔を上げ、そろそろと視線を有栖川に移した。図書館、向かい側に座る有栖川は、どうもありがとう、とにこやかに告げる。
「すごいすごいとは思ってたけど、まさかここまでとは」
「でも、一位のひともいるんだよ」
「それはそうだけど」
 有栖川は大したことでもないように言う。私と柘植くんは顔を見合わせる。
「しかも有栖川、まだまだ伸びそうだもんなあ」
 柘植くんは言い、うんと伸びをして椅子を(きし)ませた。頭の後ろで手を組み、深く溜息をつく。
「まだ時間があるような気がするけど、そんなこんなしてたらすぐに受験なんだなあ」
「そうだね」
「有栖川、国公立だったよな?」
「うん。私立を選ぶ余裕も度胸もないよ」
「弓道は? 続けるのか?」
 有栖川は、部活にこそ入っていなかったけれど、小さな頃からずっと弓道を続けていた。今でも週末は道場に通っている。おじいさんが元気だった頃は、おじいさんとふたりで道場に散歩がてら行っていたものだった。
 柘植くんの質問に、有栖川は少し残念そうに笑った。
「大学に入ったら勉強に専念したいから。趣味程度には続けると思うけど」
「そうなの。有栖川が弓引いてるとこ、好きだったのにな」
 広げた数学のプリントの上に腕を伸ばして突っ伏す。有栖川はまた、どうもありがとう、と笑った。それから、受験といえば、と口を開く。
「柘植、あれはどうなったの。旅行」
「ああ、あれ」
「なあに?」
 私が首を突っ込むと、柘植くんは、
「気の早い話なんだけどね。受験が終わったら、どっか近場の温泉にでも一泊で行こうかなと思ってるんだ。所謂(いわゆる)あれだよ、卒業旅行ってやつ」
「へえ、いいなあ。誰と行くの?」
「ん? いや、ひとりで」
 私は眉を寄せた。
「卒業旅行って、友だちとするものなんじゃないの?」
 柘植くんは気にも留めずににっこりする。柘植くんの笑ったところは本当に人懐っこい犬みたいだ。
「本来そうかも。でもいいんだ、ひとりで。学生やってたらいつでも周りに誰かいるだろ? それからちょっと離れて、ひとりで知らないところに行って、見たり聞いたりして、周りの影響がほとんどない状態で、自分がそういうものに対してどう思うかってのを知りたいんだ。実験みたいなもんだよ。合格してればの話だけど、学生になればまた周りに人間は(あふ)れるようになるからさ。程度に差はあってもね」
 ふうん、なるほど。
 興味深く、私は隣の柘植くんを眺めた。彼の新しい側面を見た気がした。柘植くんは表に出さないだけで、本当はすごく好奇心が旺盛(おうせい)なのかもしれないとか、非日常を冒険することが好きなのかもしれない、とも思った。柘植くんとは中学のときに知り合ったから、もう付き合って六年目になろうとしているのだけれど、それだけ一緒にいても、そのひとを知ることができるのはたった一面に過ぎないのだと、改めて思い知った。



 有栖川はいつもと同じ調子で、静かに確実に着々と勉強を進めている。
 その日の図書館は、予想に反して閑散としていた。もっと混んでいるかと思っていたのだけれど、その日はたまたま朝から人気(ひとけ)がなかった。
 日も落ちかけた時刻ともなればなおさらで、司書さんは席を外しているし、広い図書館に人影はふたつ。
 ひとつは有栖川。その向かいに私。
 私はじいっと、有栖川の手もとを見つめていた。
 綺麗な字だ。伸び伸びしていて読みやすい。性格が出ていると思う。
「そんなにじっと見られてると、緊張しちゃうよ」
 くすりと笑みを(こぼ)して、有栖川が視線を向けてきた。薄い銀縁眼鏡を外して、座ったまま小さく伸びをする。
「ふふ、ごめんね」
「うん、いいけど。僕に見惚(みと)れてた?」
「その幸せな考え方に惚れ直したよ」
 ふふんと鼻で笑って頬杖をつく。それはどうも、と有栖川はまた笑った。
 有栖川は綺麗だ。しゃんと伸びた背筋も、いつも穏やかな黒い瞳も。私は何年も近くで彼を見てきたし、そう思うこともはじめてではないけれど、最近はその感情にも(わず)かな変化があった。
 好きだよ、とか。かわいいとかなんとか。
 そんな台詞(せりふ)を、有栖川は臆面もなく言ってのける。それは私にとっては当たり前で、挨拶のようなものだった。「好きだよ」と言われれば「私も」と返したし、「かわいいよ」と言われれば「私がかわいいのは当たり前」くらい言ってやっていた。
 軽い冗談だと思っていた。私が有栖川を好きなこと、有栖川が私を好きなことなど、当たり前すぎて。でも、好きだというのは友人として、幼馴染みとしてなのだと。周囲が言うような、恋愛感情なのではないのだと信じて疑わなかった。
 私、だって。
 有栖川を愛しているといってもいいのだろうけれど、有栖川に愛されているとも思うけれど、それが恋というものに結びつくことはなかった。
 けれどそれは私の思い込みで、有栖川がいつも、本当に本気で愛だか恋だかを告白しているなどとは夢にも思わなかった。
 ――ああ、違う。有栖川だって、好きだよと言いながらそれが恋愛感情であるとは思ってなどいないのだ。もっと、違うのだ、私たちのお互いに対する想いは。違うことはわかるのに、では何かと問われると答えることができない。この気持ちは、この関係は、なんと言い表したらいいのだろう。
「あ、――かわいいなあ」
 有栖川が窓の外を見て、ふっと幸せそうな溜息をついた。つられて私も外を見る。
 窓の外では、男子生徒と、弟らしい小学校低学年くらいの男の子が談笑していた。(かたわ)らにいるのは母親だろう。
 練習試合か何かがあったのだろうか。制服姿ではなかったが、ユニフォーム姿でもなかった。選手とかなんとか関係なく、お母さんと弟でお兄ちゃんの応援に来たのかもしれない。表情は明るいから、きっと結果は好もしいものだったのだろう。
 私は有栖川を覗き込んだ。
「有栖川って子ども好きなの? ――私たちも子どもだけど」
「うん。好き。かわいい」
 視線を手もとのノートに戻して、有栖川は(うなず)く。
「でも、保健とか家庭科で妊娠とか育児の単元やってたとき、複雑そうだった」
「よく覚えてるなあ」
 家庭科で保育の単元など、一年生の頃の話だ。でも、私はよく覚えていた。有栖川の家庭という背景を少なからず知っていたから、忘れられなかった。
 有栖川は苦笑して、なんて言えばいいかなあ、と(つぶや)いた。
「僕に子どもの頃があった――小さい頃ってことだよ。そういう頃があったっていうのが、コンプレックスといえばコンプレックスではあるかもしれないね」
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