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 私は、うん――と、なんとも意味のない返事らしきものをした。有栖川は両親を知らない。私はその感覚を想像で補うことしかできず、だからこそ何を言っても無神経な気がして、黙ってしまった。
 (うつむ)いて、ちらりと上目遣いに有栖川を盗み見る。有栖川はやっぱり微笑していた。それでも、その微笑の種類が少し寂しげだとわかるのは、付き合いの長さからかもしれない。
「でも、子どもは欲しいな。できれば男の子と女の子、両方」
「有栖川って変わってる……」
 同年代の男の子で、子どもが欲しいなどという希望を聞いたのははじめてだった。
「でも」
 憧れているもの。
 (せつ)に願うもの。
 帰る場所だとか帰れる場所だとか迎えてくれるひとがいる場所だとか。本当はそんなもの誰にもありはしないのだけれど、有栖川は他のひとと違って、ないのだ、そんなものはないのだと責めるように言われ続けてきた。
 ――家ってきっと、建築物のことばっかりを言うんじゃないね。
 以前、有栖川にそんなことを言った。



 おじいさんが亡くなって半年ほど経ったその日、有栖川は夕食を一緒にとるためにうちへ来ていた。有栖川が夕食を食べにうちにくるなんておじいさんが亡くなってからははじめてで、久しぶりだった。母ははりきってビーフシチューを煮込んでいたし、ふたりの妹たちは宿題を有栖川に見てもらっていた。早く帰宅した父までもが、母を手伝って台所でサラダの準備をしている。
 私はソファに座ってテレビを見ていた。テレビはちょうど夕方のニュースの時間で、赤ん坊がお母さんに放っておかれて死んでしまった事件だとか、小さな子どもが実の両親から虐待を受けて入院したことなどを告げていた。
 テレビとソファの間に折り畳み式の小さなテーブルを広げて、(はるか)永久(とわ)に宿題を教えてやっていた有栖川が時折手を止めて顔を上げ、じっとテレビに見入る。彼の関心事は、おじいさんの手紙を読んでから、家族のことになっている。恐らくは今までもそうだったのだろうけれど、そういう部分はいつだってあったのだろうけれど、こんなにもあからさまではなかった。
 しばらくして宿題が一段落したらしい有栖川が腰を上げ、私の隣に座った。肩が触れ合うくらいの距離だった。有栖川が何を言いたいのかがわかって、私はまず、うん、と頷いた。
「お父さんやお母さんがいても、死んじゃう子はいるんだね」
「……そうだね」
 有栖川は静かに肯定した。
 だからといって、有栖川が幸運だったとか、不運だったとかいう話ではなかった。幸福や、不幸の話でもない。
「家ってきっと、建築物のことばっかりを言うんじゃないね」
 私が言うと、有栖川はじっと私を見つめた。有栖川の黒い瞳が、私の姿をしっとりと映している。
 有栖川の瞳は、星屑(ほしくず)の散らばる冬の空に似ている。黒くて深くて、いつもやわらかな静かな光が宿っている。私はその瞳に見つめられると、胸の奥が苦しいような、哀しいような、痛い気分になってしまう。
「帰れる場所、っていうのかな。鳥にとっての止まり木みたいな……帰っていける場所、とか」
「うん」
 言いながら、それがどんなに(はかな)いものなのか、蜃気楼(しんきろう)のように頼りないものなのか、きっと私も有栖川もわかっていた。それをなんの疑いもなく信じられるほど、そのときはもう、お互いに子どもではなくなってしまっていた。
 生まれたときからずっと、天涯孤独だったよ。
 ――ずっと。
 それでも有栖川は、
「ひと、そのもののことなのかもしれない。家族っていう字に、家っていう字が入ってるみたいに」
 と言った。
 有栖川がどんな気持ちでそれを言ったのか、考えると涙が出そうになる。
 触れ合う距離にいる幼馴染みが、おじいさんとの、いつも怯え、心配し、疲れ果てながらも、それから(のが)れる術をどちらかの死以外には持ち得ずに過ごす、ひっそりとした日々から未だに抜けきれないでいることがわかった。
 最愛のひとだったおじいさんを失ってしまったショックから立ち直るだけでもたいへんなことだろうに、そのひとと過ごしてきた日々で得た習慣を忘れ去るなんて、もっと難儀(なんぎ)なことに違いなかった。
 有栖川の皮膚には、おじいさんとの日々が染みついている。
 有栖川が何を渇望(かつぼう)しているのか、痛いほどにわかった。有栖川の長い手足、皮膚、髪、(まつげ)、寂しげな目もとから、彼の持つすべてのものから伝わってくる。有栖川は何も言わないけれど、彼にとっては、私の家のうるさいほどの賑やかさや畳まれないままの洗濯物、放り出された新聞紙、たらいに()かった食器から漂う生活の匂いは、強烈なものだっただろう。
 それを想うと、涙が浮かんだ。有栖川のゆったりとした(まばた)きに、胸が締めつけられた。
 私は、有栖川の癖や考え方を恐ろしく細かいところまで知っていて、今彼が感じていることをなんとなくでも知ることができる。まるで音が空気を伝わるみたいに。私と有栖川は、神様に糸電話の糸で結ばれたみたいに伝わり合う。そのことが、私の心を苦しくさせた。それでも有栖川は孤独なのだ。私とどんなに繋がっていても。
「家族って、デオキシリボ核酸を半分ずつ受け継いで生まれた一個の人間と、多くは婚姻関係によって結ばれた際に、そのひとにデオキシリボ核酸を半分ずつ分け与えたひとたちの集合体のことだけを言い表すんじゃないよね」
 確かにそう言った。
 (すが)るような調子になってしまったのは、信じたかったからだ。だってずっと、もうずっと、有栖川は私の家族だったから。
 その遣り取りを思い出しながら、私は一度口を結んだ。
 ――だから、これから家族になれる。
「うん。いいかもしれない」
 それは奇跡だ、と私は思った。尊い奇跡だ。
 有栖川が、何がいいの、と訊いてきた。
「有栖川がお父さんかぁ」
「希望はね」
「でも、有栖川は子ども産めないね」
「男だからねぇ」
 おじいさんを思い出した。ずっと、有栖川を守り続けたおじいさんを。
 決心するのは思いのほか簡単だった。
 私は私が有栖川に対して抱いている感情を、なんとと呼ぶのか知らない。私たちの関係を、幼馴染みという以外に知らない。名前をつけられない。でも。
 でも。
「じゃあ、私が産んであげる」
 その一言は、流れるように私の唇から零れ出た。
 そうして、一瞬。
 ほんの刹那(せつな)、瞬きするほどの間だけ。
 沈黙が落ちた。
 それから、
 ――私は、そのときの有栖川の表情を、どれだけの歳月を経ても絶対に忘れないだろうと確信した。
 有栖川は僅かに目を伏せると、静かに、泣きそうに微笑んだ。
「ありがとう」
 喉の奥が、つんと詰まった。有栖川はそれくらい、きれいに微笑んだ。零れそうになる涙を必死で(こら)えて、悪戯(いたずら)っぽく笑ってみせた。
「あのね、運がよかったら一回で男の子と女の子、両方出来るよ。うち双子の多い家系だから」
「そうなんだ? 楽しみだな、ちゃんと経済力つけないと」
「うん。私は、体力つける」
 今でも充分あるだろう、と笑う。そのときにはもう、いつもの有栖川だった。
 私は密かに、もう想い出になってしまった、記憶に刻まれたさっきの有栖川の微笑を思い出す。ほんの少し、泣きそうな。有栖川の涙はいつも、空気を伝わって私の目から零れる。
「そろそろ帰ろうか」
「うん」
 ちょうど、図書館も閉まる時刻だった。
 扉を開けて一歩出て、私はいやーん、と顔を(しか)めた。
「あっつーい」
「夏だからねえ」
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