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 そう言う有栖川はどうしてこんなに涼しそうなのだろう。たった一歩出ただけなのに、生徒が唯一自由に出入りできる冷暖房完備の特別教室が恋しい。この学校の『図書室』は完全に別棟で『図書館』だから、なんだか余計に特別な感じがする。
 迫ってきた熱気は()せてしまいそうなほど。膨張した大気に押し潰されそうな気さえする。
彼方(かなた)
 今日は熱帯夜かなあ、などと考えていると、有栖川が小さく声をかけてきた。
「なあに」
「うん……」
 有栖川は少し背が伸びた。私は中学で止まってしまったらしく、一センチの変化も見られないというのに。
 いつの間にか、声も、僅かだけれど低くなっていた。
 いつの間にか、横顔を見上げるようになっていた。
 私は目を細めた。とても愛おしかった。
 気がつかなかった。
 有栖川って、有栖川って、
 ――こんなに綺麗な男の子だったんだ。
「手、繋いでもいい?」
 調子はいつもと変わらない。有栖川は本心を隠すのが上手だ。
「暑いし、――私の手、熱いよ」
「いいんだ」
「んと、――じゃあ、えっと、どうぞ」
「ありがとう」
 ぎこちなく横に手を出すと、有栖川の手が遠慮がちに触れた。
 有栖川の左手は、先ほどまでの冷房のせいか少し冷えていた。その奥から、(にじ)むようにほんのりと体温が伝わってくる。大きくて、筋張っていて、指が長い。
 あまりにも有栖川が遠慮しているようだったから――そしてその遠慮が、もし振り払われたらという恐怖を(はら)んでのことと感じ取ったから、私はその手をそっと握った。
「おっきい手」
「……小さい手」
 緩く握り返してくれる、有栖川のてのひらの弾力が嬉しかった。きっと、馬鹿みたいに幸せそうな顔してるだろうな、と思った。
 校門を出ると、西に僅かに(くれない)を残した空には星がひとつ輝いていた。星の王子様の星だね、とかなんとか言い合いながら、手を繋いでゆっくり歩いた。有栖川と手を繋ぐことなんて慣れている筈なのに、何故だかどきどきした。だって、まるで恋人同士みたいだ。
 そうしていてなんとなく、脳裏に、(さや)に収まったという表現が浮かんだ。鞘に……。
 ……ん?
「……なんかえっちだ」
「何が?」
「……内緒……」
 私はもごもごと誤魔化(ごまか)した。私と有栖川には、少なくとも今のところは適切な表現ではないのだけれど、なんというか、語感が……。
 こんなことを考えてしまうだなんて、はじめての経験だ。
 指摘されたわけでもないけれど、ものすごく気恥ずかしい。
 何も考えずに言ってしまったけれど、子どもを産む前にしなければならないことがあったのだ。このひとはそのあたり、わかっているのだろうか。
 とんでもないこと言ったかなあ、と複雑な心境で見上げた有栖川の顔は、長年一緒にいた私でもはじめて見る、緊張した面持(おもも)ちだった。私は自分のことを棚に上げて笑った。
「有栖川、もしかして緊張してるの?」
 有栖川は、う、と言葉に詰まって、うん、と頷いた。
 うん、緊張してる。
「へんなの。手、繋ぐのなんてはじめてじゃないのに。手を繋いで一緒に寝たりするのに」
「それはそうなんだけど、でも、やっぱり、違うよ。なんとなく。……彼方があんなこと言うからだ」
 ()ねたような口調の有栖川が珍しくて、可笑(おか)しくて、私はまた笑ってしまった。あはは、有栖川、かわいい。私がそう言ってからかうと、有栖川はますます困った顔をした。
 私はそのことを、絶対忘れない、と思った。有栖川と交わした約束――というよりは、おまじないみたいなものを。有栖川の微笑を、珍しく照れている彼の困っている頬なんかを。すべてが大切だ、と思った。これは、大切なことだ。
 私は有栖川の手を握るてのひらに、ぎゅっと力をこめた。
「それはそれとして、そうだね、彼方、僕らも旅行しようよ」
 唐突に有栖川は言った。
「え」
 咄嗟(とっさ)の言葉も出てこずに、目が点になってしまう。すると有栖川は、だからね、旅行しよう。と、丁寧に言い直した。
「旅行?」
「うん。これから先になると僕と彼方じゃ予定が合い難くなるだろうから、 できれば早いうちに」
「どうしたの、急に」
 頭がぐるぐるした。有栖川がそんなことを言い出すなんて、一体どういう風の吹き回しだろう。でも、有栖川はゆったりと、急じゃないよ、と私の言葉を否定した。
「ずっと前から考えてたんだ。じいさんからの手紙を読んだ夜に、知らないところへ行ってみたいって言っただろう。あのときから。柘植が一泊旅行を計画していて、それが本気だっていうのを聞いていたら、僕もやってみたくなったんだよ。まだ時間があるうちに、行っておきたいと思って」
「ひとりじゃなくて?」
「うん。彼方と一緒に」
 私はちょっと考えた。
「どこへ行くの?」
「そんな具体的なことはまだ何も考えていないよ。承諾ももらってないし」
 薄い藍色の空には白い星が散らばっていた。秋が(ひそ)んだ風が、私と有栖川の間を吹く。
 旅行、という言葉が、なんだかとても明るく感じられた。色々な可能性のもとのようなものに思われた。
「うん。行く。行きたい」
 有栖川との旅行は突然決まった。
 私は、いつか有栖川が、旅行はいいかもしれない、行ってみたいと言っていたことはよく覚えていたけれど、まさかそれがこんなに早く実現に向かうとは思っていなかったので、まだ信じられない気持ちが少しあった。その一方で、どこへ行こうと考えている自分がいる。
 嬉しかった。
 私ではなく、有栖川が言い出して誘ってくれたのが嬉しかった。
 希望という言葉に沿()っている気がした。
「また、話し合おうね。どこへ行くかとか」
 有栖川を見上げる。有栖川はとても感じよく微笑んだ。



 家に帰ると、家族はみんな(そろ)っていた。
 母は夕食の準備をしていた。父は散らばった雑誌や新聞を(まと)めていた。ふたりの妹たちは、ダイニングテーブルに向き合って各々(おのおの)宿題をしているようだった。
 いつかも見たようななんでもないその光景を、私はかつてなくとても貴重なもののように思った。
 私にはあって、有栖川にはないもの。
 私はこの光景を、努力することなく、気がついたら手に入れていた。手に入れさせられていた。自発的に選ぶことなくそうだった。私が有栖川と幼馴染みであることが、私がそうしたかったからそうなったのではないのと同じように。
 私には気がついたら両親がいて、妹たちがいた。望んだわけでも、望まなかったわけでもなかった。それは神様の領分だった。
「私、有栖川の子どもを産むことにした」
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