back  |  next   
 夕食の最中、私が出し抜けに言うと、さすがに家族は口をあんぐりさせた。数秒間の空白のあとに、父は「はあー」と嘆息ともつかない声を()らし、母は「あらあら、まあ。またそんな」と呆れたように(うな)った。妹たちは、私が子どもを産むというのに想像が追いつかないらしく――私だって想像しきっているとは言い難いのだけれど――ぽかんとしていた。
「まあ――なんでまた急に」
 母の問いに、私は真面目に答える。
「有栖川と約束したの。今日、図書館へ行って、そういうことを話した。有栖川が男の子と女の子両方欲しいって言ったから、じゃあ私が産んであげるって言ったの。そうしなきゃいけないというか、そうするのが当たり前みたいな気がして。そうしたら有栖川はありがとうって言ったから、うん、そういうことなの」
「なあんだ、妊娠したわけじゃないのね」
 母の言葉に、今度は私が口を開けた。
「まさか。どうして?」
「だって妊娠したと思うじゃない、まだ高校生なのに子ども産むことにしたなんて。びっくりした。でも、そう――妊娠してるわけじゃないんだ。それなのに産むって決めちゃったの。あんた変わってるね我が子ながら。有珠(ありす)くんもだけど。結婚するの?」
「結婚?」
 頓狂(とんきょう)な声を上げると、母は、あれ、という顔をした。
「だって子ども産むんでしょう? まあ結婚しなくたって子どもは出来るし、結婚がすべてだとも思わないけど。結婚はしないの? 子どもだけ作るの? どうやって育てるの? 有珠くんが育てるの? あんたが育てるの?」
 母はまるで心配性でお節介(せっかい)な友だちのように質問をたくさんしてきた。矢継(やつ)(ばや)の質問についていけず、おろおろしながら、自分が結婚については何も考えていなかったことに気づいた。
 本当に、何も考えていなかった。子どものことだけだった。でもそうか、確かに、結婚という経過も入ってくるだろう約束だったのだ、あれは。
 有栖川はどうだろう。彼のことだから、やっぱりちゃんと考えていたのだろうか。
「考えてなかった」
 私は正直に告げた。母はからからと声を上げて笑う。
「あはははへんなの。かわいいねえ、こどもみたい」
 こどもみたい。
 私たちを幼いと思っていない何よりの証拠の言葉だった。
 父が、「また、有珠くんも連れておいで。一緒に夕食を食べようって」と笑いながら言った。頷きながら思う。
 私は家族を持っている。家がある。それは、ケーキという言葉がほんのりと甘い幸福をイメージさせるのに似ていた。あたたかいものだった。
 有栖川は今、ひとりで、あの天井の低い薄暗い家で食事をしているのだろう。
 私がいるのに、そんなことさせてはもう駄目な気がした。有栖川の孤独や哀しみは、家族がいないということが原因ではないのだけれど、でも。
 有栖川を呼ぼう、と思った。
 有栖川が嫌がったら、私がまた有栖川の家に行けばいい。残りの夏休みは、一緒に過ごそう。朝も昼も夜も。有栖川が鬱陶(うっとう)しがっても、知らんぷりしてくっついていこう。私たちは離れては駄目なのだ。寂しいからとか好きだからとか、そんなのではなく、まるでずっと前から決められたことであるように思った。他に選択肢がないというほど悲劇的なものではなく、そうするのが当たり前のような――私が、あなたの子どもは私が産む、と言ったときのように。
 選択肢がたとえどんなにたくさんあっても、有栖川と一緒にいるというそれだけが淡い光を放って他から浮き上がっているような、どんな状況でも私はそれを自然に選ぶような、そんな感じだった。私にとって、有栖川に関することはいつもそうだ。涙はあっても悲愴(ひそう)ではない。運命というものが本当にあるのなら、この結びつきをそう呼ぶのかもしれないと思った。



 校庭の銀杏(いちょう)が鮮やかな黄色に染まっていた。空の高い青との対比がやわらかく、夏の緑の葉との激しいそれとは対照的で、時間はゆったりと穏やかに流れていた。
 風が冷たくなっていた。
「あ」
 かちかちとシャープペンシルを鳴らしながら、有栖川が声を上げる。放課後、図書館。受験勉強をしている生徒が散っている。
「壊れた」
 別段困ってもいない様子で有栖川が実況した。途端、私たちの周囲が耳をそばだてる気配。すすすっ、と私とも有栖川とも別のクラスの男の子が寄ってきた。
「有栖川。それ、そのペン、俺にくれ」
「え。壊れてるよ?」
「いい! 壊れててもいいから」
 有栖川は首を(ひね)った。男の子は(おが)む格好をしている。周りのひと、私たちとは離れた机に座っている生徒たちも、この遣り取りに気づいているひとはこっそりこちらを窺っている。
「うん、じゃあ……どうぞ?」
 有栖川は、わけがわからない、どうするんだろうといった面持ちで、男の子にペンを渡した。
「ありがとうッ」
 男の子は喜色満面、丁寧にペンを押しいただいて、自分の席へと戻っていった。有栖川の向かいに座った柘植くんが、堪えきれないみたいに肩を震わせだす。
「すごい、有栖川大明神。菅原道真(すがわらのみちざね)公もびっくりだ」
「何それ」
 怪訝(けげん)な顔をする有栖川を見て、私も笑った。わかっていない。
 夏休みに行われた全国模試で、有栖川は一位になっていた。
 全国一位。
 どこかにいることがわかっていながら、遠い遠い存在の全国模試一位のひとが自分と同じ学校にいるなんて、きっと河童や天狗が隣に座っているようなものなのだ。
 まだ困惑している有栖川の横顔を、私は(なぎ)の日の湖面のような平らかな気持ちで眺めた。
 もう誰も敵わない。完璧なひと。
 有栖川はいつの間にか、完璧になっていた。怖いほどに。おじいさんを亡くしてから二年の間、他には何もすることがないように上にばかり進んでいった。
 誰にでもやさしく、公平で聡明。穏やかで、恨むことも(ねた)むこともせず、またそうされることもなく、ただ静かに生きている。――有栖川は、無音。秋の温度そのもの、冬の空そのもの。ひやりと冷たく、ざわめくことのないひと。
 哀しかった。
 完璧と賞賛される有栖川に触れる度に、彼の心の奥底にしまわれた寂しさが皮膚を伝わってきて、泣きたくなった。有栖川の完璧が作り物でないことが、私を一層哀しくさせた。このままでは本当に、誰ひとり有栖川についていくことができず、彼の(そば)にいられず、有栖川はひとりぼっちになってしまう。
 シャツに薄手のセーターという合服(あいふく)姿でも、外の夕方の空気は大分冷たく感じられた。気温が下がってくると、もうジャケットが欲しいくらいだった。途中柘植くんと別れると、私たちは手を繋いだ。
「有栖川、一躍有名人だね」
「うん?」
「模試のせいで」
「ああ」
 何気なく有栖川を見上げると、眼が合った。真っ黒い、星の散らばる冬の空の瞳。有栖川は微笑んだ。衝撃を受けた。何故だか一瞬、私ははじめてこのひとを目にしたような気持ちになった。
「僕の結果だけが独り歩きしてるみたいだね」
 有栖川は言い、穏やかに瞬いた。
 もう誰も敵うものなどいない。
 もう誰も敵うものなどいない、静かな美しいひと。
 私の脳裏に、あるイメージが(ひらめ)いた。
 そこにあるのは闇。ただ一面の闇。その無限の空間の中心に、有栖川が(たたず)んでいる。(まぶた)を閉じたまま、ひっそりと。音はない。彼の存在は常に無音だ。
 微かに彼の足もとがきらきらと光る。彼を中心に細かな光が輪を繋ぎ、(ほど)ける。そのことで、有栖川が水面に立っていることがわかるのだ。波紋は恐らく、有栖川の鼓動の旋律。とくん、とくん、とくん。規則正しく、終わることなく――触れているわけでもないのに、私にはそれがわかる。
 孤独だ。
 絶対的な。
 それとも、有栖川そのものが孤独なのだろうか。
 ……だとしたら、孤独とはなんという美しさだろう。――哀しいほど。
 彼の孤独をはじめて知った思いだった。まさか、――これほどまでだったなんて。私はたまらず目を閉じ、唇を引き結んだ。手を強く握る。気づいた有栖川はまた微笑して、やさしく握り返してくれた。その指先から零れるような寂しさが、雪のようにやわらかく、冷たかった。
「旅行」
 短く、私は呟いた。有栖川の孤独に(ひた)りきってしまうには、私はまだ弱すぎる。抜け出せなくなってしまう。
「いつ行こうか」
 有栖川は空気みたいに微笑んだ。
「冬休みにでも行く?」
「受験勉強は? いいの?」
「気分転換。勉強ばっかりしてると効率が悪くなるから」
 なるほど、それはそうかもしれない。同時に、有栖川の気持ちが僅かでも外に向かいはじめているのだとも実感できて、少し安心した。突然私の中に広がった孤独があまりにも深かったから。それだけではないのだと彼自身の言葉で確認できて、凍りつくような深海から(すく)い上げてもらったみたいな気持ちだった。
「行きたいところがある?」
「言われてみると思いつかない。そういえば僕は、どこにも行ったことがないんだけど、どこかに行きたいと思ったことも同じくらいないな」
 彼が言うのを聞いて、考えてみる。
「じゃあ、知恩院(ちおんいん)へ行ってみない? 有栖川の好きなものがいっぱいあるよ」
 有栖川は朗らかに笑った。
「それを言うなら、京都へ行ってみない、だろう」
「あ、そうか。うん、そう」
 私はこくりと首を縦に振った。
「いいね。うん、行ってみたい」
 有栖川が頷くのを静かな気持ちで見ていた。なんと言ったらいいのかわからない、不思議な気持ちだった。強いて言うなら、今までぼんやりしてかたちを上手に取り得なかった有栖川の魂が、しっかりとかたちを取ってきているのを目の当たりにしているような――ああ、やっぱり神様はいるのかもしれない。そんな気持ちだった。
 このまま、()(がら)みたいな有栖川の存在が今よりもっとずっと強いものになっていってくれればいい、彼の影が濃くなっていったらいいと、心から思った。
 back  |  next



 index