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リフレイン






 話し合いの結果、旅行はやっぱり冬休みに行こうということになった。彼方(かなた)は、原稿を書きながら旅行のことだけを考えて過ごしてる、と笑っていた。その笑顔は僕の心にもあたたかかった。
 ところが、いざ冬休みになって、あと一週間で出発という日、僕は風邪をひいて倒れてしまった。比喩ではない。本当に倒れたのだ。熱を出して倒れるなんて、数年ぶりのことだった。
 高熱が続き、(せき)がひどく、頭が割れるように痛い。咳をする度に身体中が(きし)んで、昼夜を問わずろくろく眠ることもできない。病院に行って注射を打ってもらい、薬をもらってきたけれど、一向によくなる気配はなく、それどころか悪くなっていくようだった。舌もおかしくなっていて、辛いものは口内が痛く、甘いものは味が感じられない。まともに食べられるのはお(かゆ)くらいだった。
「今までずっと、気がつかないうちに頑張りすぎてたんだよ、きっと」
 うつったら大変だからと僕が断ったにも関わらず、聞かん坊の彼方が泊まり込みで看病に来てくれていた。毎食お粥を作ってくれて、僕はふらふらしながら、それでも彼女と向き合い、ふたりでお粥を食べた。アイスクリームを常備し、僕がどうしても眠れない夜中に、彼方も付き合って起きて一緒に食べたりもした。
 彼方はともかく、僕にはそれぐらいしかできることがなかった。受験勉強は勿論、旅行などもってのほかという体調だった。
 眠れずに疲れ果てた朝方、或いは夜に、彼方が体温計を持って僕の部屋を訪れる。「ちょっとはよくなった?」と訊きながら、僕の額に自分の額を合わせた。幼い頃に戻ったようだった。
 朦朧(もうろう)とした意識の中で、僕の心はこれまでの記憶、歴史を忘れ、幼い子どもだった何も知らない頃に戻った。その度、()()しのやわらかな心に一抹(いちまつ)の寂しさ感じて、涙が出そうになった。感傷的になっていた。そんな気持ちになるのも久しぶりのことで、自分をコントロールできなくなっている、とぼんやり感じた。
 闇の中で目を覚ました。
 何時くらいなのか、見当もつかない。夕方なのか、既に夜なのか。それとも、もうすぐ夜が明けるのか。天井は暗く、部屋はしんと静まり返っている。空気はほんのりとあたたかい。そういえば、彼方がストーブをつけて部屋をあたためてくれていた。
 熱はまだあるものの、咳はほとんど止まり、頭痛もひいてきていた。僕は深い息をつく。
 横になった僕の頭上にある、閉じられた(ふすま)の隙間から、あたたかい色の明かりが()れ出ていた。彼方がいるのだ。耳を澄ますと、さりさりとペンを動かす音が聞こえてくる。原稿を書いているらしい。彼方の気配に安堵(あんど)して、僕は再び目を閉じた。
 控えめに襖が開いた。暗い部屋に、一直線にやわらかな黄色い光が伸びる。
「有栖川?」
 細く開けた襖から顔を出し、ひどく小さな声で、彼方が呼びかけてきた。
「ん?」
 咳のせいでがらがらに枯れた声で返事をする。彼方がほっと息をついた。
「起きた?」
「うん。よくわかったね」
「なんとなく。有栖川が起きたような気がしたの。気分はどうですか?」
「うん……よくはないけど、悪くもないよ。おなかすいた」
 彼方は笑った。
「お粥作ってくるね」
 襖が閉じられ、部屋はまた暗闇に戻った。僕は布団から両腕を出し、腹の上で指を組んだ。(まぶた)が熱い。まだ熱があるのだ。頭がずっしりと重い。
 しばらくすると襖が開き、お盆に土鍋とお碗を載せた彼方が入ってきた。
「電気つけるよー」
 かち、と音がして、数度の点滅のあと、部屋が明るくなった。少し目がくらんだ。目をしぱしぱさせながら起き上がる。
「どれどれ」
 言いながら、僕の額にてのひらを当てる。ひんやりと冷たいそれが、火照(ほて)った僕にはとても心地よかった。
「うーん。まだちょっとあるね。なかなか下がらないなあ」
 手を離し、土鍋の(ふた)を開ける。お碗にお粥を盛っている彼方の肩を、なんともいえない思いで眺めた。
「彼方」
「んー?」
 彼方は顔を上げない。
「旅行」
 と言うと、今度は顔を上げた。僕の顔を見る。
「行けなくなって、ごめん」
「そんなこと」
 なあんだ、というふうに笑った。
「いいよ。いつでも行けるよ」
 溜息をつくように微笑んで答える。幼い子どもに言い聞かせるようだった。差し出されたお碗を受け取って、「でも、ごめん」と繰り返す。彼方は今度は本当に溜息をついた。
「いいってば。きっと、神様が今はやめておきなさいって言ったんだよ。普段、自分の健康にすごく気を遣ってる有栖川が、それでもこんなにひどい風邪をひいたなんて、そうに違いないよ」
 神様という言葉を、彼方はとても自然に発音した。お伽噺(とぎばなし)の魔法みたいな響きだった。これは彼方の力だ。  それでも僕が釈然(しゃくぜん)とせずにしているのを見て取ると、彼方はふっと息をついて、仕方ないというふうに微笑んだ。
「また、いつかどこかに行こうね」
「うん」
 彼方の微笑の言葉に、僕は丁寧に(うなず)いた。声は空気に染み入るように響いた。



 ゆっくりと休養したことにより、僕はやっとのこと大分回復してきていた。とはいえまだものの味はわからず、頭痛もあって、万全の体調にはほど遠い。
 その日は久々に、既に慢性になっている頭痛もなく熱も下がっていて、僕はパジャマにジャケットを羽織り、シチューを作る彼方の危なっかしいことこの上ない手つきをはらはらしながら見守っていた。大体彼方は不器用すぎる。手前の飯は手前で作れ、との家訓を持つ一奈(たかな)家にある彼女は、料理だってもう何度も、それこそ同年代の子よりはずっと多く台所に立っているだろうに、まるで慣れた感じがしない。包丁を持てばにんじんと一緒に指まで切り落としそうだし、フライパンを火にかければ腕まで(あぶ)りそうだし、見ていて気が気じゃない。
「彼方! 何度言ったらわかるの、包丁持つ手と反対の手は指引っ込めてなきゃ駄目だって。指が落ちる」
 見ているこっちが怖い。
「もう! 大丈夫だってば、有栖川は心配しすぎなの!」
 彼方はまるで聞く耳を持たない。憤然(ふんぜん)と言い返してくる。彼方の言い分としては、これまで何ともなかったから心配には及ばないというのだ。けれど、これまでが大丈夫だったからといって、これからも大丈夫だとは限らない。
 痩せてふらついている僕が、横からああだこうだと口を出し、不器用極まりない手つきで包丁を握る彼方が唇を尖らせる。と、チャイムが鳴った。心配を彼方の隣に残しながら玄関に出る。サンダルを突っかけて引き戸を開けると、見慣れた長身が立っていた。
「よっ。元気」
 ジーンズに黒いジャケット、マフラーという格好だ。右手には新聞紙に包まれた木の枝を持っている。外はかなり寒かったのだろう、頬は色を失っていた。  それでもそのひとは、人好きのする笑みを満面に浮かべていた。
 柘植(つげ)だ。
「風邪で寝込んでる人間に、元気、はないだろう」
 僕は苦笑して返した。柘植は吐く息も白く、そりゃそうだ、と軽く笑う。
 柘植は後ろ手に引き戸を閉めると、いきなり僕の額にてのひらを当てた。冷えきって硬くなってしまったてのひらだった。それで僕は、僕と彼の家が学校を挟んでほぼ反対方向にあることを思い出した。
「よかった。思ったほど熱ないな」
「つい今朝方下がったんだ。それまでは毎日高熱続きで、冗談じゃなく死ぬかと思った」
 そっか、下がってよかったな、と柘植は手を引っ込めた。外気に凍えていても、柘植のあたたかさは失われない。季節は今は勿論真冬もいいところなのだけれど、柘植は、彼自体がまるで季節はずれの向日葵(ひまわり)なのだ。
「あっ、柘植くんっ」
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