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 不意の声にふり向くと、彼方が目を輝かせていた。エプロン姿でぱたぱたと駆け寄り、僕らよりもずいぶん低い位置から柘植を見上げた。
「どうしたの、この寒いのに」
「有栖川の見舞い。もうそろそろよくなったんじゃないかと思って来たんだ。さすがにうつされちゃ敵わないし」
「あはは、そっか。柘植くんも受験生だもんね」
 言って、柘植の手を両手できゅっと引っ張る。
「ねえ柘植くん、せっかく来たんだから、ご飯食べていって。今ちょうどね、シチュー作ってたところだったの」
「ああ、いいね。そうしていきなよ柘植。彼方の手料理なんてそうそう食べられるものじゃないよ」
 柘植は笑って、するりと彼方の手の中から自身のそれを抜け出させた。
「そうさせていただきたいんだけど、これから帰って飯の支度しなきゃならないんだ。今週俺の当番だから。また誘って」
「そっかあ。……残念」
 彼方が肩を落とす。幼い頃から、彼方の表情の豊かさは変わらない。危なっかしくて目が離せないのも本当だけれど、見ていて飽きないからずって見ていたい、という意味ではとても楽しかった。
「というわけで、はいこれ見舞い」
 柘植は今度は僕に向き直ると、新聞紙に包装された木の枝を差し出してきた。そしてそれから邪気なく笑う。
「合格祈願をかけて、お互い。叶ったら近くの神社に奉納して」
 僕は、ふと、祖父が亡くなって間もない頃、柘植が訪ねて来たときのことを思い出した。



 雨が降っていた。
 秋の、細く長い雨。
 祖父が他界してからというもの――いや、違う。祖父が生きていた頃から、雨はあまり好きではなかった。雨の日はいつも、祖父は体調が優れないと言って床に伏せっていた。僕にはそれがつらくてたまらなかった。いつも心の片隅に抱いている不安――いつ死んでしまうのだろう、この次の瞬間かもしれない、そんな不安が僕を疲弊(ひへい)させた。
 祖父が他界してからも、開放される筈だったその苦悩に、僕は度々(たびたび)悩まされた。心配と不安の対象である祖父は既にこの世のひとではないというのに、ふとした瞬間に、僕の心は祖父がまだ生きていた頃に戻った。もういないとわかっている一方で、まるで発作のような不安感が湧き立った。特に雨の日は酷く、途切れることのない雨音を聞いているうち、家のそこここに祖父の気配を感じ取った。既に死んでしまった、もういないのだ、そちらの方が嘘に思えた。
 何もする気になれず、ただぼんやりと(たたみ)の上に身体を投げ出していた。身体が輪郭線だけを残し、ぽっかりと空洞になってしまったような感じだった。
 雨の音が聞こえる。やまない。雨の湿った空気と、僕の家に染み渡る本の匂いと、祖父の遺した、かつて彼が立てていた取るに足らない物音どもが、ひっそりと家中に満ちていた。
 空虚だ。
 この家は。
 祖父が僕に遺していったかたちのないもの。それを想うたび涙が頬を伝った。祖父を失ってはじめて、僕は、祖父にとっての僕がどれほどの宝だったかを思い知った。有珠(ありす)という名は祖父がつけたのだ。
「ごめんくださーい」
 目尻を濡らした(しずく)を拭ったとき、その声は響いた。陽気なわけではないが明るい、底抜けた印象の声だった。僕はのろのろと起き上がり、玄関に向かった。立っていたのは柘植だった。
「おう」
「柘植。どうしたの」
 深いグリーンの傘を畳みながら、学生服の柘植は、ノートだよ、と言った。
「休んでる分のノート。いるだろ。持ってきた」
「ああ」
「何」
 僕が不思議そうにしているのを見て取り、柘植が尋ねた。僕は、いや、と短く応えた。
「そういうのは、その――いつも彼方が持ってきてくれるから」
 柘植は傘を玄関脇に立てかけ、肩にかけていた鞄を抱え直して中を探り出した。
「一奈さんはまだ学校。原稿がどうとか言ってたな。今日は来られないかもしれないってさ」
「そうなんだ」
「残念?」
 不敵に笑って訊いてくる。いつも通りの柘植だ。救われた。
 僕は小さく笑って否定する。
「君が来てくれただけでも嬉しいよ。――上がって。寒かっただろう」
 柘植にタオルを渡してから台所に向かい、戸棚からほうじ茶の缶を取り出した。柘植は日本茶好きだ。湯を沸かして茶を()れ、居間に持っていくと、柘植は 「ほら」とノートを二冊掲げてみせてくれた。
「有栖川ならどの教科でも独学で乗りきれるだろうけど、一応、化学と数学。古典とか歴史あたりは必要ないだろ? 生物もいるようなら明日また持ってくるか、一奈さんに預けるかするけど」
「充分だよ。ありがとう」
 柘植の真向かいに腰を下ろす。寒かっただろうと招き入れたものの、決してあたたかいとはいえない、むしろ冷えきった室内に、ふわりと白い湯気が立ち昇った。
 しばらく、どちらも何も言わなかった。
 柘植が湯呑(ゆの)みを口に運んだ。渡したタオルを首にかけた彼の頬は冷えて白くなっていた。しんとした室内で、外から漏れ聞こえる雨音と、茶を(すす)る音だけが音だった。
「一奈さんがさ」
 柘植が口を開いた。
「恋ってどんなもんなんだろうって言ってたよ。少し前の話だけど。あんまり真面目なもんだから、誤魔化(ごまか)せなかった。真面目に考えちゃったさ」
 拍子抜けした。
 きっと祖父のことに対して、何か――何か言うのだろう、彼方も柘植も。そんなふうに思っていたから、柘植のその言葉には肩の力が抜けてしまった。
「ハウ・トゥ・ラヴとか言ってくるし。一奈さんて変わってるな」
「なんて答えたの?」
 柘植は黙った。
 彼にしては珍しく、迷っているようだった。
 もうひとくち湯呑みを傾け、柘植は、
「境界線を越えるような、越えてからはじめて越えてしまったと気づくようなものだって言った。――受け売りだ」
 それから湯呑みを置き、一息つく。
「一奈さんはお前のことを好きなんだな」
 僕は驚いて柘植を見つめた。癖のあるやわらかそうな茶の髪や、くっきりとした二重瞼(ふたえまぶた)、やさしい鳶色(とびいろ)の瞳を。
「僕も彼方を好きだよ」
 僕は身を乗り出した。
 どういう衝動だったのかわからない。
 僕は目を閉じると、柘植の唇の端に、ほんの少し触れるだけのキスをした。
「…………何するんだ、お前は」
 別段慌てるふうもなく、ただ苦いものでも食べたような顔をして、柘植は至近距離の僕を押しやった。
「ファーストキスだった? ごめんね」
「バカたれ」
 僕は笑った。笑いながら目を()らした。泣きそうになっている自分を理解できなかった。こんな状態では、怖いほど真摯(しんし)な柘植の眼差(まなざ)しを正面から受け止めることはできない。
 僕は笑みを引っ込め、静かに言った。
「さっきのことを、後悔しないでいくために」
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