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「有栖川が?」
「いや、君が――違うな。――僕と、君が」
 うん、と柘植はおとなしく聞く姿勢を示してくれた。僕は続ける。
「もし柘植の大事なひとがいつか困るようなことがあったら、そのときは、さっきのキスを柘植が渡してあげて」
 柘植は微かに笑った。
「それなら、その誰かにとってお前が大事なひとじゃないと、このリレーは成り立たないよ」
 柘植は瞬時に僕の言葉を理解し、返してきた。僕は、違うよ、と首を振った。
「違う――いや、違うといっても微妙なもの、僅差(きんさ)しかないかもしれないんだけど――誰でも、誰かの大切なひとだから――そう、そうなれると言ってもいい。救われたひとはひとを救う。ひとは救い合える。そういうふうに出来てる」
「うん」
「受け売りだよ。じいさんからの」
「うん」
「医師だったんだ」
「うん」
 救われたひとはひとを救う。
 そういうふうに出来ている。
 ああ、それなら。それが本当なら。
 鼻の奥がつんとした。泣くのは苦しい。でも、だから泣かないわけでは決してない。
「きっとそうするよ」
 柘植はとても丁寧に言った。
「うん。そうして」
 声が震えてしまった。



 柘植が帰ってしまってから、もらった枝を明るい居間で見てみると、それは(あんず)だった。(つや)のいい黒い枝に、桃に似た薄紅色(うすべにいろ)可憐(かれん)な花が散り咲いている。杏の花が咲くにはまだ早い筈だと思ってよく見ると、それは紙で作った精巧(せいこう)な造花だった。
 彼方はふふふ、と愉快そうに笑った。
「柘植くんて洒落(しゃれ)好きだったんだね」
 僕もつられて微笑む。
 医者の美称を杏林(きょうりん)という。また、杏は孔子(こうし)杏壇(きょうだん)と呼んだ場所で弟子たちを集めて学問を講じたことから読書人の象徴ともされ、科挙合格、つまり受験合格の象徴ともされている。
「センスは違うけど、彼方と柘植、よく似てるよ」
「えー、どこがあ」
 少し焦げてしまったシチューを口に運びながら、彼方は意外そうに僕を見た。他抜(たぬ)きと(たぬき)を引っ掛けて、合格祈願にとたぬきのぬいぐるみを僕に贈ったことは、彼女の頭の中では洒落の部類ではないらしい。
 ……似ているのは、そういうところだけではないのだけれど。
 口には出さず、心の中で思う。
 僕はお粥を(すく)っていた蓮華(れんげ)を置くと、深く呼吸をした。
 使い古されてはいるけれど、手入れされた照明。その明かり。石油ストーブの匂い。薬缶の立てる湯気。シチューの入った皿。飴色(あめいろ)に鈍く輝く机。窓に結ばれた露。それらが立てる音。
 いつの間に、こんなにたくさんのもので(あふ)れるようになっていたのだろう。少し前まで、ここに満ちていたのは空洞だった。
 見慣れた家具、食器、今までずっと味わってきた空気、それらが皆、幸福という概念に添うようにかたちを変えていっているようだった。少なくとも明かりの当たる範囲では、それは真実だった。ぬくもりのあるものが満ちていた。
 すべて、彼方が変えた。
 彼方が呼吸して、食べて、眠って、そういう――生きる、ということをすることが、この家にとって大きな意味を持っていた。
 祖父のことを忘れたわけではない。忘れないし、忘れられない。けれども、彼方は、彼方の持つすべては、忘れない、でも変わっていく、それを肯定していた。変わっていくことは悪いことではないのだと言っていた。僕はその只中にあった。
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