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三つのオレンジの恋






 結局私は、有栖川(ありすがわ)の風邪が全快しても彼の家に居座り続けた。
 毎日、気が向いたときに気が向いたように洗濯をしたり、掃除をしたり、食事の支度をしたり、原稿を書いたり、本を読んだりして過ごした。(かたわ)らではいつも有栖川が勉強していた。時折ハレが遊びに来た。
 有栖川の(そば)で生活するのは、私にとっては呼吸するのと同じくらい自然なことだった。
 家族も何も言わなかった。時々電話がかかってきて、有栖川の様子を尋ねたり、私の近況報告という名の世間話を聞くくらいのものだった。柘植くんは一度お見舞いに来たきりとんと顔を見せず、そうしているうちに、あっという間に卒業式の日を迎えた。
 私は目を覚ました。辺りはまだ暗い。首を回して枕もとの目覚し時計を探り、目を()らして見ると、まだ五時だった。通常の起床時間より二時間も早い。有栖川が起きる時間まででも、まだ一時間ある。
 深呼吸をする。冷たい空気が肺を(ひた)した。静寂の音までが染みてくるような冷たさだった。しばらく黒い天井を見つめ、それから今度は反対方向に首を回す。隣では、有栖川が静かに寝息を立てていた。
 私は半身を起こした。途端にひんやりとした空気に抱かれて鳥肌が立つ。早春の明け方はひどく寒く、底冷えがした。私は毛布を()()り上げてくるまり、有栖川を覗き込む。
 暗がりの中、有栖川の肌は蒼く灰色に染まっていた。まるで大理石で削り出したかのように滑らかな、冷たそうな頬。閉じられた長い(まつげ)(まぶた)は繊細で、神様の仕事を受けた彫刻みたいだった。
 突然不安になった。有栖川の寝姿は静かで、童話の中のお姫様の亡骸(なきがら)みたいに美しいのだ。
 恐る恐る、有栖川の頬に指先で触れた。
 あたたかかった。――安心、した。冷たかったらどうしようと思ったのだ。有栖川が、おじいさんの死を危惧(きぐ)して、夜中に目を()ますたび、おじいさんのくちもとに手を(かざ)して呼吸を確かめていたという気持ちの欠片(かけら)を掴んだ気がした。それは常習的な不安であり、衝動的な焦燥だった。
 有栖川の死を連想したたった一瞬の胸のざわつきが収まらない。心臓がどきどきする。彼は毎夜、こんな想いに(とら)われていたのだ。有栖川が疲労困憊(ひろうこんぱい)して、すべてのことに対して()(がら)みたいになってしまうのも(うなず)けた。
 怯えたり心配したりという心の動きは、ひどくエネルギーが必要だ。
 死は悪いものではない。自然の営みだ。誰の上にも等しくある運命だ。そんなことは誰もがわかっている。――それなのに死に直面したとき、大切なひとのそれを目の当たりにしたとき、受け入れられなかったり、……まるで用意していたように涙が(あふ)れたりする。
 私は音を立てないように気をつけながら立ち上がり、お風呂場に向かった。
 古い広いお風呂でお湯を沸かし、電気をつけて入る。熱めに入れたお湯に浸かり、ぼんやりと窓の()硝子(がらす)を眺めた。磨り硝子は闇の色から、丁寧に明度を増していく。大分明るくなって硝子が白くなり、生まれたばかりの朝陽がやわらかな線になって射し込んでくる頃、私はやっとお風呂から上がった。指先はすっかりふやけてしまっていた。
 お風呂から上がると、素裸で制服を自分の前に掲げてみた。これを着るのは、今日でもう最後なのだ。毎日アイロンをかけて、着ていった制服。いつもよりも時間をかけてきちんと着る。はじめて着るみたいな気がした。
 居間に行くと、有栖川も起きて朝ご飯の用意をしていた。
「おはよう」
「おはよう。早かったんだね」
 うん、と私は頷いた。
「いつも通りに起きちゃったから、登校するのにはちょっと早いね」
「散歩でもしようか。いい天気だよ」
 私と有栖川はゆっくりと食事を取り、片付けをしてから散歩に出た。有栖川の言う通り、空はよく晴れていた。寂しくなるくらいの快晴だった。早朝のせいか人影はない。私と有栖川は手を繋いだ。
「今日でもう卒業なんだね」
 私が言うと、有栖川は、うんと(こた)える。
「なんだか、あっという間だったなあ」
 うん、ほんとだ、あっという間だった。
 でも、色々なことがあった。
 私は、おじいさんが亡くなったこと、有栖川の家に長々と泊まり込んだこと、柘植くんに預けられたキスや有栖川と食べたホットケーキの味、夏に交わした約束、行けなかった旅行のことを大切に思い出した。そうして私は、高校の間――というよりも、生まれてからほとんどの時間を有栖川と共有してきたことに気づく。気のせいではないのが不思議だった。
「卒業かあ。もう、なんでもできるようになるんだなあ」
 私は言った。
「なんでも自分の思う通りにできるようになるんだね。でもその代わりに、もう誰も助けてはくれなくなるんだ……もう、囲って守ってくれるものは何もないんだね。今までだって充分好きなことをやってきたし、自由だなあと思ってたけど、いざそこから出て行かなきゃならなくなってみると、今まで自分がどんなにいろんなものに守ってもらっていたかがわかるね」
「怖い?」
 有栖川が訊いてきた。私は首を振る。
「ううん。でも、なんだろう。不安、かな。どうなるんだろうとは思う。でも、それは――」
 いつだってそうだった。
 私は、未来が何もわからなかった。周りの友だちがそうするように、未来に対する予想や期待をできなかった。私は未来を夢見るということをしなかった。私はいつだって、思い出と現在だけに生きていた。
 みんなが何を夢見ているのか、何に向かって頑張っているのかがわからなかった。私は常にそのときだけしか見ていなかった。私は、先のことを考えて行動するのが苦手なのだ。けれどその代わりのように、そのとき、そのときをでき得る限り丁寧に生きてきた。甘えてばかりだったかといえば、決して違う。私は家族や有栖川を、たとえどんなに自分の機嫌が悪くても(ないがし)ろにしないし、健康には気を遣っている。自分で自分を大切にしない不誠実を、私は決してしない。
「有栖川は? 怖い?」
 私が尋ね返すと、有栖川は小さく笑った。
「怖くはないよ。僕が怖いのは、もっと別のこと。前にも言ったけど、僕が怖いのは、彼方(かなた)が僕よりも先に死んだらどうしようっていうただひとつなんだ」
「今でも?」
 驚いて訊くと、有栖川は穏やかに微笑を含んだまま続けた。
「多分、きっと、これからもずっとね。僕は多分、そういう恐怖から(のが)れられないんだと思う。いつもそういう心配をして、不安に思いながら生きていく人間なんだよ。最近やっとそれを認められるようになってきた。――大切なものがあるのは、尊い。でも僕は、大切なものを作るのが、――まだ、少し、怖い。こんなにも彼方が大切なのが、自分でもどうしてかわからないほど、怖い」
 おじいさんが亡くなって、もう丸二年が過ぎた。けれど、有栖川は未だにおじいさんの死から立ち直れていないのだ。彼は未だ、おじいさんの死に囚われたままでいる。
 でも、どうしてそれを責めることができるだろう。有栖川のおじいさんに対する想いなど、想像してもしきれない。何も知らない私には、何を言うこともできない。
 死。
 一体なんなのだろう。死んだらどうなるのだろう。おじいさんはどうなってしまったのだろう。呼吸をして、心臓が動いている、それだけが生きているということではない筈だ。
 ああ、だけど。
 おじいさんはもういない。
 確かにいない。二年も前に、有栖川の前から、私の前から、この世のすべてのものから決定的に遠ざかってしまった。
 私は、有栖川のように、死を恐れる、怯えるということがわかっていなかった。有栖川がどうしてそんなに怖がるのか、わからなかった。
 それが、私と有栖川の距離だった。
 私は有栖川が死に対してひどく敏感で、親しいひとのそれを怖がっているのは痛いほどわかったけれど、どうしてなのかは理解することができなかった。
「苦しくない? そういう生き方は」
 私は尋ねた。有栖川は、
「そうだね。苦しい」
 と短く答えた。
 私は有栖川の手を強く握ってみた。こんなにも近いのに、遠かった。
 ――僕はずっと前から、生まれたときから天涯孤独だったよ。
 有栖川の声が耳の奥に響いた。ずっと天涯孤独だった、今までもこれからも。有栖川のその言葉は、私の中で(いかり)のように重く沈んでいた。何かにつけ、それがちらついた。
 確かにそうなのだろう、否定できない事実なのだろうと、私も気づいてしまったからだ。
 けれど、それなら、ひととひととが共にあることには、どんな意味があるのだろう。私が有栖川と共にあることに、どんな意味があるのだろう。私は、有栖川を苦しめるために彼の傍にいるわけではない筈だ。
「有栖川」
「ん?」
 呼びかけると、有栖川は穏やかに微笑んで、返事をした。有栖川の微笑は美しく、一枚の寂しい絵のようだった。その、寂しそうな、絵のような微笑を見る度、私の胸は締めつけられた。
「……呼んでみただけ」
 有栖川は笑った。私は笑えなかった。心が、雪に(ひた)されたように冷たくなってしまっていた。
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