back  |  next   


 卒業式は本当に退屈だったのだけれど、もうこの体育館に生徒としていることはないのだとか、こんなふうに気だるい気持ちで先生の話を聞くことはないのだとか、これまで過ごしてきた三年間を思い出していたら、ほんの少しだけ涙が(にじ)んでしまった。
 教室の中も、下駄箱の並ぶ土間も、卒業を喜んだり寂しがったりするひとの群れでいっぱいだった。有栖川はいつものようににこにこして、周囲の男の子たちと、恐らくは最後の談笑をしていた。私は数人の友だちと写真を撮ったり、これからのことをちょっと話したりしていたのだけれど、何気なく見遣った校門に親しんだ背中を見つけて、友だちに別れを告げると、慌ててそのあとを追った。
柘植(つげ)くんっ」
 学校から出てすぐのところの小さな公園で、私は柘植くんを呼び止めた。柘植くんはふり向いて、ああ、一奈(たかな)さん、と例の人懐っこい笑みを浮かべた。私もいつものように、尻尾を振る茶色い大きな犬を連想する。
「どうしたの」
「え? いや、えっと。卒業おめでとう」
 取って付けたように私は言った。
「ありがとう。一奈さんもね。おめでとう」
「ありがとう」
 柘植くんの胸にはチューリップで作ったコサージュが飾ってあった。第二(ぼたん)がなくなっていた。柘植くんの学生服姿を見るのも、これが最後なのだ。
「恋がどんなものだか、わかった?」
 出し抜けに尋ねられた。私の感覚は即座にあの雨の日に戻っていった。柘植くんの表情からは、どんな感情も読み取れない。
 私は首を振る。
「ううん。わからない。一生わかる気がしない。なんとなくだけど、私は未来のことを考えたり予想したりっていうのが本当に苦手なんだけど――でも私は、一生恋をしないような気がする。きっとわからないまんまだって」
「そっか」
 柘植くんは邪気のない笑顔を見せた。私は目を細める。何故だか、ずっと前から柘植くんの笑顔は私にとってとても貴重で、とても愛おしいものだった。
「柘植くんは? 好きなひと、出来た?」
 悪戯(いたずら)心や好奇心、どれとも違う静かな気持ちで尋ねた。柘植くんは何も言わず、ただ微笑んだ。私は口を尖らせる。
「何も言わないのはずるいよ」
 柘植くんは困ったように肩を(すく)めた。
「どう言ったらいいのかわからないんだ」
 正直な言葉だったのだろう。それがわかって、私も黙ってしまった。――柘植くんが誰を想っているのかも、同時にわかった。彼は決してそれを口にすることはなかったけれど、彼の言葉、行動の端々にすべてを感じられた。ずるいのは、私の問いに答えなかった――答えられなかった柘植くんではなく、わかっていながら問いかけた私だ。
 柘植くんは少し(うつむ)いていた。くっきりとした二重瞼(ふたえまぶた)、茶色の睫、穏やかに伏せられた瞳。私はたまらなくなって、思わず柘植くんに抱きついた。
「抱きつく相手が違わない?」
 柘植くんは驚かず、苦笑して私の頭をぐりぐり撫でた。
「違わない。ありがと、柘植くん。大好き」
 私は(ささや)くような小声で言った。柘植くんはまた笑った。それから私をやさしく()()がし、私の前髪を撫でるように()()げた。
「これは、一奈さんに」
 言ったかと思うと、柘植くんは私の額に軽くキスをした。私は額を押さえて彼を見上げる。
「これは私の? ――有栖川に渡さなくてもいいの、ね?」
 実は、以前預けられたキスも、未だに有栖川に渡してはいないのだけれど――でもあれは、有栖川が困ったときに渡してというものだったから、機会はない方がいいのかもしれない。
「うん。それは、一奈さんに」
 柘植くんが何を考えているのか、さっぱりわからなかった。このひとは一体何を思って生きているのだろう。
 それでも私は、心をこめて「ありがとう」と言った。とても大切なものを、そっと両手で渡されたような気持ちだった。
 あ、と柘植くんが声を上げて、ふり向くと有栖川がいた。
「有栖川」
「彼方がいないから、探しちゃった。柘植、緒方(おがた)たちが探してたよ」
「俺は写真もカラオケも苦手だよ」
 そうか、うん、それは僕もだ、と有栖川は笑った。
「卒業おめでとう」
「どうも。有栖川も、おめでとう」
「ありがとう。柘植はこれからどうするの?」
 柘植くんはちょっと考えるような顔をした。それから、「学校行って、勉強して、勉強して、立派な歯科医師になります」としかつめらしく答えた。生真面目な様子が可笑(おか)しくて笑ってしまう。有栖川は、僕も似たようなものだ、と言った。
「柘植くんも有栖川も、これからもっと大変だね」
 ふたりは、うん、と同時に頷いた。
「ま、お互い頑張ろう」
「そうだね」
 すっと有栖川が手を出した。柘植くんはふと笑って、てのひらをぱんと軽く叩くようにして自身のそれと触れ合わせた。握手ともいえない、一瞬の触れ合いだった。
「じゃあなー」
 そう言って、柘植くんは手を振って去っていった。私は有栖川と、彼の後ろ姿を見送った。有栖川は黙って、私はばいばい、と手を振りながら。
「柘植はいい男だ」
 ぽつりと有栖川が(つぶや)いた。
「あんな奴は、そういるものじゃない」
 独りごちるような言葉に、私は傍らの有栖川と、もう遠くなってしまった柘植くんの背中を交互に見比べた。
 柘植はいい男だ。
 確かにそうかもしれない。柘植くんみたいなひと、そういるものじゃない。あんなふうに寛大で、無神経ではなく一言で本質に深く切り込んでくるようなひとは。
 私はそっと、指先で額に触れてみた。熱いような気がしてならなかった。



 おめでとうと私が言うと、ありがとうと彼は応えた。
「もう何度も聞いたよ」
 と笑いながら。
「うん。何度も言ったね」
 春。
 春は好きだ。薔薇色(ばらいろ)という言葉の、色の似合う季節。澄み渡った青い空、流れる白い雲、甘い花の匂い、(まぶ)しい緑、あたたかい空気、明るい景色。春の神様はきっと、やわらかな髪に花をいっぱい飾った少女だと思う。
 有栖川と向き合うのは久しぶりのことだった。卒業式が終わってから、さすがにそろそろ帰らないといけないかなと思った私は有栖川の家をあとにし、実家で過ごしていた。そんなとき、出版社の方から電話があって、この間の短編の評判がよかったからと短期の連載のお話が舞い込んできた。そうしたら今度は私まで忙しくなって、大学の合格発表が終わってからも、なかなか有栖川のところへ行けないままに時間が過ぎてしまった。
 別れのときは明日に迫っていた。
 有栖川はもう、東京での下宿先も見つけて、あとは必要な荷物を持って発てばいいだけだった。
「行こうか」
「うん」
 私と有栖川は並んで歩き出した。有栖川は荷物を持って、私は手ぶらで、サンダル履きという軽装で。その日は、有栖川がうちに泊まることになっていた。
「なんだか、有栖川と一緒に歩くの、久しぶりだ」
「僕もそんな気がする。ついこの間までほぼ毎日そうしてたから、実際は少しなのに、すごく間があいたような気がするね」
 私は空を見上げた。世界のすべてが薄い甘いピンク色に染まっていた。西に落ちかかる太陽が輝く蜂蜜色をしていた。棚引(たなび)く雲が、太陽の金と、空の透きとおる桃色に溶けた色をしている。足もとのアスファルトは午前中の春雨に濡れて、西日にきらきらと光っていた。
 back  |  next



 index