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 眩しかった。
 とても、とても美しい風景だった。
 こんなに美しい風景を、しばらく有栖川と共に見ることはないのだとぼんやり感じた。隣を見ると、有栖川も黙って空を見ている。
 ――同じことを考えている。
 わかってしまうから、きっと有栖川も私が同じことを考えていると気づいているだろう。
 家に着くと、私たちは少し早い時間にすきやきを食べた。食べ盛りの男の子が来るんだから、といつもの理論で、母は材料を大量に買い込んできていた。こんなに食べきれないよと思ったのに、食事が終わってみると、山のようにあった野菜やお肉はきれいになくなってしまっていた。みんな実によく食べた。
 私と有栖川は、時間も早いし、腹ごなしに散歩してくると言って近所の公園に出かけることにした。後ろで母が、「恋人同士みたいだね」と笑いながら投げ遣りに言う。私たちは顔を見合わせて笑ってしまった。
 春の夜の公園は、静かだった。
 点在する外灯の蒼白い明かりが、ちらほらと咲きはじめた桜の花びらをぼんやりと白く照らしている。幽玄(ゆうげん)、という言葉を思い出した。この桜の木には、ひとでも獣でもないものが棲んでいる、そんなふうに思えた。空には細い、猫の爪のような月がかかって、黒に近い濃紺の空に、白い星がいっぱいに散らばっていた。有栖川は丁寧に星座の名前を教えてくれたけれど、私にはどれがどれやらさっぱりわからず、途中で音を上げた。
「きれいだっていうことしかわからない」
 と言うと、
「それで充分だと思うよ」
 と笑ってくれた。
 有栖川は、星や花や風や空の名前をたくさん知っている。それらは私が美しいと感じ、大切に想っているものだった。
 そうして三時間ほど飽きもせずに星を眺め、私がくしゃみをひとつしたところで家路についた。
 私たちは一緒に住んでいるわけではない。いつだって『お泊まり』だ。どんなに長期でも、ふたりきりで過ごして家事を分担して何気なく生活していても、一緒に住んでいるわけではない。
 けれど、私と有栖川が共に辿る道はいつも、家へと続く道だった。家は確かに、建築物のことばかりの意味ではなかった。
 春とはいえ夜は冷え込む。すっかり冷えきってしまった私たちは代わりばんこでお風呂に入り、ふたり(そろ)って「おやすみなさい」と言って部屋に引き上げていった。私と有栖川が同じ部屋で眠ることを、今さら誰も何も(とが)めなかった。
 電気を消した部屋で、私はベッドに、有栖川はベッドと平行に並べた布団に横になる。
「有栖川、眠れなくない?」
 有栖川は夜遅く、朝早い。
「うん。でも、時間が早いっていうのもあるけど、それより緊張してるんだと思う。彼方の部屋で眠るなんて久しぶりのことだから」
 そういえば、小さい頃はよく来ていたけど、大きくなってからは、有栖川はあまりうちには泊まりに来なくなっていた。ただ、そうなった理由は明らかだったから、わざわざ口に出すまでもなかった。言っていいことでもない。
「私の部屋、変わった?」
 代わりにそう訊いてみた。
「どうかなあ。印象としてはあんまり変わらないね。相変わらず、殺風景(さっぷうけい)
「原稿を書くか、寝るか、ふたつにひとつの部屋だから。自分の部屋だけど、あんまり見回すことってしないんだ」
 私は言いながら、目だけで部屋を見渡した。確かに殺風景だ。部屋の壁に鳥獣戯画(ちょうじゅうぎが)のレプリカが一枚飾ってあるだけで、あとはまっさら。部屋自体も、机とベッドが置いてあるだけで、ぬいぐるみのひとつもない。
「あ、それなら」
 ふと思いついて、私はベッドの上から有栖川を覗き込んだ。
「私自身は? 変わった?」
 有栖川は少し黙った。考えているらしい。それからおもむろに口を開いた。
「わからないよ。気がついたら、いつも彼方が傍にいたから。いつも一緒にいるひとが変わったかどうかって、わかりにくいし。でも、ひとの本質はそうそう簡単に変わっていくものじゃないと思うから、多分彼方も、肝心の部分はあまり変化がないんじゃないかと思うよ」
「そうかな」
 私の肝心の部分は、有栖川を大切に思っている部分だよ、と言いかけて、やめた。代わりに、有栖川の言葉を反芻(はんすう)する。ひとの本質は簡単に変わっていくものじゃないから、肝心の部分はあまり変化がないんじゃないかと思うよ。
 私が黙ってそのことについて考えていると、有栖川はぽつりと、
「彼方は昔から、素直で、率直で、真摯(しんし)で、泣き虫だった」
 と呟いた。
 このひとは、誰よりも私を深く理解している、と思った。
 そして、こんなふうに布団を並べて、暗闇の中で有栖川と語り合うなんていうことが、これからしばらくの間はまったくできなくなってしまうのだと不意に感じた。今日の夕暮れのような美しい景色を、一緒に見られなくなるように。
「有栖川、東京に行っちゃうんだね」
 耐えきれずに、言ってしまった。
「寂しいな」
 それは、本当に意識せずに、私の唇から(こぼ)れ出た言葉だった。多分、私の、飾り気のない真っ白な正直な気持ちだったのだと思う。
 有栖川は東京へ行く。
 寂しい。
 口にしたことで、そのふたつがとてつもない重みと現実感を持って私を襲った。――ほんとうに寂しいと。
 有栖川は、「長い目で見よう」と言った。
「僕が彼方を好きで、彼方も僕を気に入ってくれているのは、確かに普遍的なものではないけれど、大丈夫と信じていいものだと思うよ」
 それは運命というものなのだろうか。
 運命って何、と訊きかけて、さっきと同じようにやめた。どんな名前を与えても、私と有栖川の関係は、『私と有栖川』というだけで、それ以上でもそれ以下でもない。わかりきっていることだ。有栖川が言うように、確かに決して普遍的なわけではないけれど、それでも私たちは繋がっているのだと、ほとんど無条件にお互いが信じている。
 それに、と有栖川は続けた。
「彼方は、僕に東京へ行ってほしくないわけじゃないんだろう」
 確かにそうだった。私は、有栖川に東京へ行ってほしくないわけではない。彼がなりたいものになるために、きっと生まれてはじめて自分だけのことに集中出できる機会を、潰したいわけはなかった。有栖川はすべてお見通しだ。私がよくわかっていない私自身の気持ちに対しても。
 私は、やっぱり有栖川は東京へ行って勉強するのがいいのだ、必要なのだ、――繋がっている確信があるのだから寂しくないと自分に言い聞かせて、
「有栖川、真面目に勉強してね」
 と、とんちんかんなことを言った。有栖川は笑って、「勿論だよ」と答えてくれる。その微笑を暗闇で感じているうち、気が遠くなるような寂しさが、紙に水が染み込んでいくようにゆっくりと胸に満ちてくるのを感じた。



 有栖川が発ってしまうと、私の身の周りには本当に誰もいなくなってしまった。そもそも進学校だったので、当然といえば当然なのだ。進学しない私の方が珍しい。
 親しかった友人はみんな県外の大学に行ってしまって連絡もままならないし、私は私で原稿さえ書いてしまえばあとは何もすることがないしで、退屈極まりなかった。今まで退屈なんて感じたことがなかったのに。
 最初は退屈をおもしろがれたけれど、すぐに飽きてしまった。アルバイトでもしてみようかなと思ったりもしたけれど、思うだけで、身体がついてこない。なんだか気だるかった。空気が抜けてしまったみたいだ。
 母は、
「あんたはいつもひとのことを気にかけてたから、気にかけるひとが周りに誰もいなくなって、その分の緊張が解けたのよ」
 と言った。意外な発言に驚くばかりだった。そうだった記憶も自覚もまったくない。
 そんな日々の中の、原稿を書いている最中だった。母が部屋に入ってきて、「電話だよ」と子機を渡してくる。私はあんまり電話を好きではないし、特にそのときはなんとなく誰とも話す気がしなかった。とはいえ取り次がれてしまったものはどうしようもない。仕方なく電話機を耳に当てた。
「お電話変わりました、彼方です」
「彼方。久しぶり」
 私は慌てて子機を持ち直した。
「有栖川」
「うん。元気かい?」
 有栖川の声はのんびりと、微笑を含んで尋ねてきた。
「元気。どうしたの?」
「どうもしないよ。ただ、どうしているかなと思って」
「何もないよ。ああ、今ね、短期の連載をさせてもらってるの」
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