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「へえ、すごいね。おめでとう。進んでる?」
「まあまあ。筆が止まることはないから、調子はいいよ。………………ねえ、有栖川」
「ん?」
「電話って、(むな)しいよ」
 電話のむこうで、苦笑する気配が伝わってきた。
「本当だね」
 電話は切れた。
 首が落ちてしまいそうなくらい頭が下を向いた。身体の中身がからっぽになってしまったみたいだ。今までの比ではない、不確かなものでもない。
 ほんとうに、からっぽ。
 しばらく、手に持った子機をじっと見つめていた。電話で聞いた有栖川の声は聞き慣れなくて、いつもより少し低かった。生の有栖川の声の方が何倍もきれいだと思い、溜息をつく。
 ――これじゃあ、キスが必要なのは私の方だ。
 落ち込んだ。ひとを好きでいるということは、なんて哀しいのだろう。とてもつらい。
 ごろりとラグの上に寝転がって、意味もなく足をばたばたさせた。小さな円テーブルは足も短くて、下に潜らせた膝がテーブルの裏側にがんと当たった。
「……痛い」
 にゃあん、とハレが近づいてきた。
 猫という動物は何故だか仕事をしている人間の傍にやってくる。そして何故だかわざわざノートやら新聞やらの上に腰を下ろして眠りはじめる。……要するに、人間側からすれば非常に迷惑極まりない行動に出てくれる。
 ご多分(たぶん)()れず、ハレは薄茶色の(しま)の尻尾を九十度に立てて円テーブルの上に落ち着いた。私が原稿を書く際に使っているテーブルなど本当に小さなものだから、体重七キロを誇る大きな猫が乗れば隙間すらほぼなくなる。円い卓からはみ出して垂れた尻尾を眺めながら、ぬくもりの残るような子機を抱き締め、有栖川を思い出してみた。
 正しくは、有栖川と自分の関係を。
 なんなのだろうと考えた。ずっと答えの出ていないもの。
 幼馴染み。それは、そうだ。厳然たる事実だ。でも、違う。私が求めているのはそんな答えではない。有栖川は、私と自分の関係をどんな言葉で(くく)っているのだろう。知りたい気もしたし、知らなくていい気もした。私は常に私であるだけだし、有栖川は有栖川をやっていくだけだろうから。
 だから、――そうか。知ったところでなんの役にも立ちはしないのだ。
 思い至って、私はばりばりと頭を()いた。
 ハレが大きなあくびをした。窓の外は明るい。有栖川は遠かった。有栖川の身体は。
 ――有栖川。
 溜息と共に彼を強く想った、瞬間。
 ふわり、
 ――と。
 有栖川の腕を肩に感じた。後ろから、抱き締められた。
 錯覚。
 けれど確かに、寝転がったままなのに、思わずふり返ってしまうほどはっきりと感じた。私の肩を包む有栖川の両腕、壊れ物を扱うみたいに触れる指先を。
 刹那(せつな)、突然目が見えるようになった思いがした。
 はじめて、知った。
 たとえば電話をかけるとき、受話器を持った左手でボタンを押すことだとか、食事の際は必ず汁物から口をつけるだとか、釦をとめるときは必ず第二釦からだとか。
 きっと、有栖川自身ですら知らない彼の些細(ささい)な癖まで知ってしまっているのに、それなのに、私は彼を知らない。いつかも思った。私は彼を知らないと。まるではじめて目にするように感じたことがあったことを思い出した。でも。
 そんな程度のものではなかった。有栖川に抱き締められる錯覚が呼び起こした激しい感情は。
 有栖川は愛情を押しつけることもしなければ、奪おうとすることもない。ただ静かに、包み込むように――相手に気づかせないほどに、空気や風が守ってくれるみたいに愛してくれる。愛情のすべて、オブラートで包み隠すようにして。ふわりとあたたかい、やわらかな布でくるんでくれるみたいに。その上からそっとそっと抱いてくれるみたいに。
 おじいさんみたいだ。有栖川はきっと、おじいさんにそうやって愛されてきたのだ。だから激しさがない。だから気づけない。自分よりもひとのことを先に考えてしまうひとだから、気づかせないのだ。それが哀しかった。気づかせない有栖川も、気づけなかった自身も。今までどうして平気だったのだろう。こんなにまで想われていて。
 涙が頬を伝った。耳をくすぐり零れた。
 これは私の涙だろうか。
 有栖川を想うと、彼に対する愛おしさやせつなさ、哀しみ、寂しさ、そんなものすべてが心の器をいっぱいにして、溢れ出た。溢れた分が涙になって、瞳から零れ落ちる。いつだって、涙の一粒一粒が有栖川への想いそのものだった。
 私は涙を拭い、起き上がって、抱き締めていた子機を持ち直した。壁に立てかけてあるコルクボードに貼られた紙切れを剥がし、手元に持ってくると、そこに書きつけてある番号を順番に押していく。
「はい」
 数回のコールのあと、――ついさっきのことなのに、もう懐かしい。待ちかねた返事。
「有栖川」
 私が呼ぶと、有栖川は驚いたようだった。
「彼方。どうしたの、何か言い忘れた?」
「違う」
 私は言った。泣き声になる。
「有栖川、会いたいの。会いたい。電話じゃなくて、(じか)に会って話したいの。そうできないと、私、どうしていいかわからない」
 何を言っているのか自分でもさっぱりわからなかった。
「お願い、有栖川。我儘(わがまま)はもうこれっきりにする。だから、今から会いに行ってもいい?」
 切実な願いだった。私はどうなってしまったのだろう。有栖川がいても寂しい、いなくても寂しい。
 (とら)えどころのない、雲みたいな、水みたいな有栖川。
「今から?」
「うん」
「遅くなるよ」
「いい」
 有栖川は溜息をついた。呆れているのとも、うんざりしているのとも違う、あたたかい気持ちから仕方ないと思っているような溜息。微かに苦笑しているのがわかる。私の我儘を受け入れてくれるとき、彼はいつもそうして笑うから。
「気をつけておいで。駅まで迎えに行ってあげるから」
 うん、と頷いて電話を切ると、私は急いでジャケットを羽織り、財布だけ掴んで階段を駆け下りた。



 改札を抜けたすぐのところに有栖川はいて、これまで私が見続けてきたものと寸分違わないやわらかな微笑で迎えてくれた。
 有栖川の下宿先は、小さかった。
 多分、有栖川の実家が大きくて古い日本家屋だから余計にそう思えてしまうのだろう。「少し手を伸ばすだけでなんにでも届く。ちょうどいいよ、本をあんまり置けないのが哀しいところだけど」。そう言って、有栖川は笑った。
「お腹空いてない? 何か作ろうか」
 ジャケット代わりのシャツを脱ぎながら、有栖川は玄関口で少し私をふり返った。私は何かを伝えたくて、けれど何を伝えたらいいのかわからず、第二釦と第一釦だけが外れたシャツの胸にしがみついた。
「――彼方」
 どうしたの。
 有栖川の声に、本当に(わず)かな驚きが含まれる。
 ぎゅう、と背中に回した腕に力を込めた。外の匂いがする。まだ冬の残る春の風の匂い。
 有栖川の身体は、想像していたよりもずっとしっかりしていた。男のひとの身体だった。有栖川に抱きつくのははじめてではないのに、まるで知らないひとの身体のようだった。けれど、それにも関わらずこんなにも懐かしいのは、このひとの身体を知っている気がするのは、どうしてだろう。
 そろりと、私の髪に、有栖川の指先が触れた。躊躇(ためら)っていることが、そこに滲む困惑から伝わってきた。が、何も言わず、有栖川は私がそうしているように抱き締め返してくれた。
 背中に感じた腕の確かな感触に、私はやっと安堵(あんど)を得る。胸にぴったりとつけた耳に、鼓動が届いた。とくん、とくん、とくん。これは有栖川の孤独の音だ。
 有栖川がくすりと笑って、
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