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「こんな細い身体が、僕を支えているんだなあ」
 と言った。胸に響いた。
 高校三年生の夏を思い出す。
 ――ああ、そうか。
 私はひとり納得して、有栖川の腕の中で思わず、ほんの少しの涙を含んで笑ってしまった。
 あのとき私は、無意識の海の中を泳ぎながら、知っていたのだ。有栖川になら、自身を賭けられる。自分も自分に賭けられる。だから言ったのだ。
 ――じゃあ、私が産んであげる。
 あのときの私は、あのときの有栖川も、そしてずっと未来の有栖川も同様に信じたのだ。現在という名の一瞬過去の意味は、いつも未来と呼ばれる地点に立ってみてはじめて気づいた。ああ、あれは必要だった、やっぱり大切だったのだと。



 両親はあっさりしたものだった。
 にんじんの皮を()く有栖川の後ろから声をかける。
「もーいいからお泊まりさせてもらいなさいって。有栖川に迷惑かけちゃ駄目よって言われた」
 あはは、と有栖川が笑う。
「そんで、母が挨拶したいって」
 ええ? 有栖川が慌てた。
 有栖川から借りた携帯電話――彼曰く、「だって電話線引くよりずっと安いから」――を返す。受け取った携帯電話を耳に持っていった途端に、彼は困ったような微苦笑を浮かべた。母親のあまりの元気に対してだろう、私はそう当たりをつける。困っている有栖川はどこかかわいくて、もう少し見ていたかったのに、電話はすぐに切られてしまった。なあんだ、なんて少し残念な思いで鍋を火にかける手もとを覗く。
「何作るの?」
「鳥牛蒡と味噌汁。材料が揃ってないから、あんまり手の込んだものたくさんはできないよ」
「いい。有栖川のごはん好き! 手伝う?」
 尋ねると、有栖川は悪戯っぽく遠慮しとくと返してきた。
「彼方はつまみ食いばっかりするから」
「失敬な。しないよ」
「するよ。常習犯」
「……なんでばれてるの?」
「どうしてばれてないと思ってたの?」
「……」
 むくれた顔は長続きせず、吹き出して笑ってしまった。
 結局私は、有栖川が食事の支度をしている間中、整理整頓された本棚から本を取り出してぱらぱらやっていた。有栖川はここにひとりで暮らしているのだ。本から顔を上げて辺りを見回す。
 狭いけれど小奇麗な一室。有栖川の持ち込んだ彼のものが、まだ部屋に馴染みきれていなくて、如何(いか)にも引っ越してきたばかりという感じがした。
 一人用の机を引っ張り出してきて、狭いところになんとか食器を出し揃える。狭い狭いと笑いながらいただきますをした。
「かわいいーにんじんお花のかたち。有栖川型抜きは持ってきてるんだ。変わってる、へんなの」
「だって彼方が、にんじんは花のかたちに抜いてねって言った」
「言ったね。相変わらず箸置(はしお)きは使わないのね」
「うん。ああ、彼方用に用意しておくよ」
「ありがとう」
 私は一息ついて持っていたご飯を置くと、ここに来るまでの道すがら、ずっと考えていたことを有栖川に言ってみることにした。
「ねえ、有栖川」
「ん?」
 有栖川はお味噌汁に口をつけたまま返事したので、声はひどく曖昧(あいまい)だった。けれど意識はしっかりと私に向けてくれていることがわかったから、構わず続ける。
「有栖川の家に、私を住まわせてくれない?」
 有栖川はお味噌汁のお碗を静かに机の上に置いた。
 星屑(ほしくず)の散らばる冬の夜空が私を見る。
「え?」
「有栖川が嫌じゃなかったら、私をあの家に、有栖川が東京にいる間住まわせてほしいの」
 私は真剣だった。それが有栖川にも通じたのか、彼も真面目に、「それはまた、どうして?」と尋ねてくる。私は頭の中を整理しながら、ゆっくりと口を開いた。
「私、今回のことでわかったの。自分がどれだけ弱いのか。ひとりでは何もできない子どもなのかが。それを変えたいの。変えなきゃいけないとも思う。そうじゃなかったら、このままだったら、私はきっと有栖川と一緒にいられなくなる気がする。確信に近いの、その気持ちが」
 有栖川の哀しみに耐えられなくなってしまう、とは言わなかった。
 有栖川は、どんなに穏やかにやさしく生きていても、心の深部にそれは深い暗闇を沈めていた。私は幼い頃から、その暗闇に、彼の表面から滲み出てくるその暗闇に、知らず知らずのうちに浸されて生きてきた。それは常に、痛みと涙を伴う生だった。私がそれに耐えられたのは、私が何も知らない子どもだったからだ。けれど私は、大人というには子どもじみているけれど、子どもというには大人になりすぎている、その程度までには成長してしまった。そして、成長してしまった以上、もう、無知を武器にして彼の暗闇をやり過ごすことはできない。
「私、有栖川の子どもを産むよ」
 強い意思をこめて言った。本気よ、と。
「そのためには、もっと強くないといけないの。ひとひとり――あ、男の子と女の子だから、ふたりだ。人間をふたりも生んで育てていくには、私はまだ子どもすぎるの。頼りなさすぎる」
 最後はほとんど呟きになってしまった。
 有栖川の反応を待つ。有栖川はじっと私を見つめて、ふと微笑んだ。
「いいよ」
 短い答えだった。
「いいの?」
 あんまりあっさり言われて、私は訊き返してしまった。有栖川は穏やかに首肯(しゅこう)する。
「いいよ。彼方があの家に住んでくれるんだったら、僕は嬉しいよ」
「本当?」
「本当だよ」
 言い終わると、彼は再び食事をはじめた。私は、いいよ、と言ってくれた有栖川の言葉を胸の中で繰り返し抱き締めた。
「ありがとう、有栖川」
 心からの感謝をこめて、いっぱいいっぱいこめて告げた。
 その夜は久しぶりに、有栖川と一緒の布団で眠った。シングルのベッドは窮屈(きゅうくつ)だったけれど、その分あたたかくて、寒がりの私には心地よかった。
 いい夢を見た。
 記憶には残らない淡い夢。
 有栖川もそんな夢を見ていたらいい。
 翌日の始発で有栖川と別れた。ベッドの中で思いついたひとつのことを持って、有栖川に手を振る。不思議と寂しくなかった。一度満たされてしまえばしばらくはもう大丈夫だと、心から感じた。



 有栖川のところへ押しかけるようにして泊まりに行った三日後、彼の家へ移るためのちょっとした引っ越しの準備をしていると、有栖川から手紙が届いた。封を切ると、中にはカードが一枚と、薄い紙に包まれた何か小さなものが入っている。カードには、誕生日おめでとう、と几帳面な字で書いてあった。カレンダーを見る。四月十四日。私の誕生日。すっかり忘れていた。
 驚きながら、小さな包みを開けてみる。
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