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 包まれていたのは、無数の朝顔の種だった。
 涙が零れそうになってしまった。朝顔は私のいちばん好きな花なのだ。
 そうして私は、着替えと小説を書くために必要なものと、その他雑多な必要と思われるものを持って、有栖川の家に移った。私のその決心を聞いても、家族はやはり何も言わなかった。父も母も微笑んで、身体には気をつけて、と言うきりだった。
 簡単な引っ越しがすんでしまうと、あとはもう、本当に何もない日々が続いた。何もないのは同じだけれど、実家での何もなさとまったく違う。それでも、はじめての一人暮らしだったから、何もないなりに独居ならではの何かがあるんじゃないかなんて期待したのに、緊張したのさえも最初の一週間くらいだった。毎日、適当に家事をして、小説を書き進めるだけだった。時々、私宛に届いた手紙を母や妹が届けに来てくれる他は、ハレや知らない猫が家の前を通り過ぎるだけで、特に来客もない。
 来る日も来る日もひとりきり。
 一人暮らしをすると独り言が多くなるというけれど、なんとなくわかる気がした。そんな中でよかったのは、私がひとりをそれほど苦に思わないということだった。私はもともとひとり遊びが得意なのだ。本を読んだりテレビを見たり、晴れた日は広い庭の手入れをしたり、縁側で日向ぼっこをしたりと気侭(きまま)に過ごす。そうしていると、時間はどんどん過ぎていく。一日が終わるのがあっという間だった。
 ふと思い至って、基礎体温を計ることにした。もともとひどい生理不順の私は、それを改善するべく病院へ行ってピルをもらってきた。
 ノートにグラフを書く。折れ線グラフだ。
 折れ線グラフなんて中学校みたい、と思って少しわくわくした。
 毎朝体温を測り、きちんとノートに記していってみると、本当にがっくりと体温が下がるときがある。保健体育の授業で勉強したことだから頭では理解していたけれど、実際に自分の身体がその通りの反応を示しているのが、なんだか不思議だった。意識する、しないに関わらず、私の身体は確実に生を営んでいる。私は生きている。今、私の身体の中には、赤ん坊――私の遺伝子を持ちながら私とはまったく異なる人間の種があるのだと思った。
 私の中に宿り、繋がりながらも、完全に個別の生命の種。
 ヒトはヒトに体内で育てられ、産み落とされて個人として成立する。それが連綿と続いていく。永遠の螺旋(らせん)。太古から続く、小さな真珠の粒が連なったような一本の糸。私もその真珠のひとつだった。そして、私も次の真珠を宿そうとしている。意識の有無にまったく関係なく、身体は命を繋いでいくように出来ている。
 気が遠くなりそうだった。強い陽射しに目がくらんだように、私の意識は一瞬、私の肉体を離れた。
 そっと下腹に手を添えてみる。
 自分の身体の中にあるのは、心臓や肺や肋骨などではなく、生まれたり、生の終わりを迎えて死んだりしながら微妙に様相を異にしていく、無数の星を抱いて胎動する深淵(しんえん)の闇――ひとつの宇宙のような気がした。私の――私だけではない、あらゆる生き物の身体の内側には、それぞれの宇宙が、星があるように思えた。
 そして、生も死もすべて包み込む宇宙そのものですら、一瞬ごとに姿を変えていく。宇宙も生きている。
 深い、限りなく無限に近い有限の深い闇。
 ――ああ。
 静かに目を閉じる。両手で腹部に触れ、そっと撫でる。
 私が体内に抱く小宇宙は、なんて有栖川の孤独に似ているのだろう。
 体温が下がるのは、あたたかいひとと抱き合いたくなるためだろうかと思い、抱き締めてくれた有栖川の腕の感触や胸の温度、鼓動を思い出して、少し、泣いた。



 天気のいいある日、私は屋根に布団を干していた。
 風が強く、ひとが重しとして乗っていないと飛んでいってしまうので、日向ぼっこがてら布団の上に寝転がっている。手足に薄いベールのような陽光が当たって、ほんのりとあたたかい。
 心地よかった。
 空のうんと高いところで、強い風がごうごうと(うな)っている。足もとには、庭に植えてある桜の木が花を咲き誇っている。時折吹く強い風に(あお)られた薄紅(うすくれない)の花びらが、私の目の前をひらひらと舞い過ぎていった。
 小さい頃、有栖川と一緒にこうして布団を干したな、と思い出した。そしてつい本気で寝入ってしまい、一緒に風邪をひいたことも思い出して、ひとりでふふっと笑ってしまう。これまで過ごしてきた人生の一場面一場面に、有栖川がいた。もしかしたら、幼馴染みというものは、言葉で表わされているよりももっと重いものなのかもしれない。だって、望んで得られるものではないのだ。神様の領分なのだから。
 桜ごち。
 なんて素敵な日和だろう。
 (うぐいす)の声は笛みたいだ。
 もっとたくさんの桜を見たくなって、公園にお花見にいこうと思い立った。起き上がり、布団をずるずる()()って部屋の中に入れ、サンダルを突っかけて近所の公園に出かけた。
 公園にはたくさんのひとがいた。はしゃぎまわる子どもたち、赤ちゃんを連れている若いお母さんや、犬の散歩をしているひと。
 長閑(のどか)で明るく、平和な光景だった。
 公園の桜は、今が満開のようだった。今年は寒かったせいで桜の時期が例年よりも少し遅かったのだ。見上げると、真っ青な空に薄いピンクが豪華に重なっていた。黒いつやつやとした桜の幹が、健康そうに陽光に照り輝いている。
「きれいだなあ。持って帰りたいくらい」
「いやあ、こういうのは自然なままあるのが綺麗なんだよ」
 びっくりして声の方を見ると、知らないおじさんがにこにこして立っていた。
「こんにちは」
「こんにちは。お花見に来たんですか?」
 独り言を聞かれてしまったのが恥ずかしくて、私は他にどうしようもなく訊いた。本当に持って帰りたかったわけでは勿論ないのだけれど、やっぱりなんだか恥ずかしい。
 おじさんは変わらずにこにこしながら「そうだよ」と答えた。
「ここの公園の桜は、毎年見事に咲くからね」
「はい。毎年、幼馴染みと一緒にお花見に来ていました」
 しみじみと言って、私はまた桜を見上げた。今年は有栖川と一緒じゃないから必然的に過去形になってしまって、声や表現が少し寂しくなる。
 おじさんは家族らしいひとに呼ばれて、愛想よく手を振ってそちらへ向かっていった。
 おじさんと離れてからも、私はその場から動かず桜を見上げ続けた。自分までピンク色に染まってしまいそうな、それほど綺麗な色をしていた。
 そのときふと、知っているひとが近くを通った――予感、のようなものが強くした。ぱっとふり返ってしまう。相手もふり返った。私たちは同時に、驚いた声を上げた。溌剌(はつらつ)とした明朗な瞳、やわらかそうな濃い茶の髪、懐かしい柘植くん。
「一奈さん」
「柘植くん。なんでここにいるの?」
「いや、なんでって言われても」
 柘植くんは困惑しきった顔をする。
「必要なものが出てきたんで、家に取りに戻ってきたんだよ。で、通りがかった公園の桜があんまり綺麗だったんで、花見でもしようかなって」
「本当? 私もお花見。でもすごい。さっきね、私、自分の知ってるひとが通ったってわかったよ」
 そうか、俺もなんとなくわかった、と言って、柘植くんは目を細めた。その瞳が深く輝いていた。
 柘植くんと会わなかったのは少しの間のことの筈なのに、その間に、彼はとても変わったような気がした。好もしい、いい変わり方だった。久しぶりの柘植くんに、私はとても親密な感情を抱く。思いがけず会えたのが嬉しい。
「時間があるなら、せっかくだから、色々聞かせて。学校の話とか」
 私が頼むと、柘植くんは快く頷いてくれた。
 公園のベンチに座って、柘植くんの話を興味深く聞いた。彼の学校生活は充実しているらしかった。ひとりで計画してひとりで行った、例の卒業旅行の話もしてくれた。
「楽しかったよ。ひとと行くのとは別の楽しみがあるなあって思った。もう当分は無理だろうけど、また機会があったらどこか、今度は海外にでも行ってみたい」
「そしたらまた話を聞かせてね」
「行ったらね」
 柘植くんが笑う。なんて朗らかなひと、お陽様の光そのもののようなひと。
「一奈さんは? どうしてるの」
 柘植くんがそう訊いてきたとき、私は正直に、
「今ね、有栖川の家で一人暮らししてるの」
 と答えた。彼の前で、私は嘘をついたことがなかった。必要もなかった。彼はいつだって、すべてを受け流した。
 私にとって、有栖川のことは容易に口の端に乗せていい(たぐい)のことではなかったので、誰かに話すときはいつも細心の注意を払っていた。でも、柘植くんはいつだって、有栖川のことに関しても、私にとってとてもあたたかい反応を示してくれた。彼が有栖川を好いているからなのだろう。
 私は舞い散る桜の花びらを目で追いながら、毎日なんとなく、盛り上がりもなく面白味もなく、本当にただなんとなく暮らしていることを柘植くんに話して聞かせた。柘植くんは笑う。
「やっぱり、一奈さんは有栖川にとって特別だったろ」
 言われて、私は柘植くんを見つめた。
「柘植くん、いっつもそう言うね」
「いっつも思うからだよ。有栖川は、自分や自分のものに他人が触ることをあんまり好まないだろ。でも、一奈さんだけには、進んで自分のことを知ってもらおうと思ってるみたいだ。それを見る度にね、ああ、有栖川は本当に、一奈さんのことが好きなんだなあって思う」
 そう――そういうふうに見えるのだろうか。ひとの口から改めて有栖川が私をどう思っているのかを聞くと、なんだか自覚しているよりもずっと確実に、そのことが私の中でかたちを明らかにしていく。
「有栖川は器用なようでいて、不器用だ。素直じゃないしな」
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