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 そんなことを思って、ちょっと有栖川に会いたくなりました。会いたくなったけど、ここで会いに行ったらなんだか甘えているみたいだし(甘えること自体が悪いことだとは思ってないけど)、もっと強くなる! 大人になる! と宣言して有栖川のお家に住まわせてもらっている私としては、ここで会いに行くとなんだかかっこわるいような気がするというか、我慢が足りないみたいというか……私のプライドの問題です。すごくすごく会いたくなったし、声を聞きたくなったけど、ここは敢えて我慢して、お手紙するだけにとどめようと思います。

彼方より

 追伸. お誕生日プレゼント、ありがとう! すごく嬉しかった。お花が咲いたら、写真に撮って見せてあげるね。





 有栖川へ

 とても大きなことが起こりました。
 本当に、私にとっては本当にとても大きなことです。
 だから、このお手紙だけは別口で送ろうかな、とも思ったんだけど、ハレは有栖川のことを大好きだったから、私が有栖川に贈ろうとしている秘密の中に入ってもらうのは、ハレも喜んでくれるかもしれないと思ったから、秘密を持ったお手紙のひとつのかけらとして送ります。
 ハレが、死んでしまいました。
 夜、私が、もうそろそろ寝ようかなと思って押入れからお布団を出しているときに、縁側でハレがにゃーんて鳴いたの。珍しいなあと思って、窓を開けたらするっと中に入ってきて、部屋のすみっこで、私がお布団を敷き終わるのを待っててね。電気を消してお布団に入ったら、ハレがすり寄ってきて、お布団の中に入れてほしがったの。
 すごく珍しいことだった。
 ハレは冬でも誰かのお布団で一緒に寝るっていうことをあんまりしない子だったから、もうだいぶ暑くなってきたこの季節に、珍しいなあと思って、それでもちょっと嬉しくて、お布団に入れてあげた。ハレはぎゅーって私の体と腕の間に入ってきて、ちょうどわきのあたりを枕にして寝はじめた。長いヒゲとか、人間でいうところの眉毛? なのかな、目の上の、ヒゲみたいにぴょんぴょんはねてる長い毛。あれがほっぺたとかあごにあたって、くすぐったくて、耳もとでハレがゴロゴロ言ってるのがかわいくて、嬉しくて、私はあのときものすごくにこにこしていたと思う。時々ハレが背伸びして、手がむにゅって顔に触って、声を立てて笑っちゃったりした。
 ハレはもう十一歳で、人間にしたらおばあちゃんで、毛もよれよれになってきていたし、体もずいぶんやせて、見るからに老猫という感じだったけど、ハレはすごく元気だった。耳もとでゴロゴロゴロゴロ言うのを聞きながら、「ハレと一緒に寝るのって久しぶりだね」とか、「有栖川もいたらよかったのにね」とか、「ハレ、柘植くんに会いたい? 今度会ったらいっぱい撫でてもらえるといいね」とか話しながら眠った。
 暗い部屋の中で、ハレはずっとゴロゴロ言っていた。部屋は暗かったけど、障子を開けっ放しにしていたから、月の光がいっぱい入ってきて、真っ暗っていうよりも、なんだか水の底みたいな色だった。その中で、一回だけ、目が合った。
 ハレの目はすごくきれいだった。
 猫の目ってすごくきれいだよね。ほんとうに、宝石みたい。(うわ)(つら)だけじゃなくて、もっと底から深く静かに輝いているみたいな、なんだか魔法がかかったような、魔法にかけられそうなくらいきれい。キャッツアイっていう宝石があるけど、あれ以上に、本物の猫の瞳はすごくきれい。
 ハレの目も、すごくきれいだった。私はなんだか、何故だかはっとして、じっとハレを見つめた。暗いから瞳が大きくなっているし、それに夜の部屋の中で、目の色がはっきり見えるわけはないのに、私にはハレの金色の目がはっきり見えたような気がした。
 ハレの金色の目は、私が拾ってきたときと変わらない金色をしていた。星の粉をふりかけたみたいに、細かい線がきらきら光っているみたいだった。
 ハレは私をじっと見ていた。
 私も、ハレをじっと見た。
 不思議な時間だった。私もハレも、時間に見放されたみたいに、どこか別の空間にお互いしかいない世界に横たわっているような感じだった。
 朝、胸の辺りが重いなあと思って目を覚ましたら、横で眠っていたはずのハレが、私の胸の上で寝ていました。重くて、それで「ハレ、重いよ降りてよー」って言いかけて、ふっと声がなくなりました。
 私の、胸の上で。
 幸せそうに眠っているみたいに。
 私の胸の上で、丸くなって、顔を私の方に向けて、ハレの鼻面が私のあごに触れるくらい近いところに顔があって、だから私はすぐにはハレの顔を見ることができなかったんだけど、そのくらいの、もうこれ以上近づけないっていうくらいの距離で、やせっぽちになってしまった体をぴったり私にくっつけて、死んでしまっていました。様子がおかしいと思って触れてみたら、ハレの体はもう硬くなってしまっていました。
 小さい頃、博物館で見た剥製(はくせい)みたいに硬くなっていて、それでも私の、私とハレで寝たお布団のあたたかさでハレにはまだぬくもりが残っていて、でも、やっぱり、死んじゃっていました。
 「ハレ? ハレ、どうしたの」って、最初はよく理解できなくてハレを揺さぶった。でもハレは硬いままだった。動かなかった。息をしてなかった。ハレは確かにここにいて、昨日の夜は久しぶりに一緒に寝て、ハレはあったかくて、ゴロゴロ喉を鳴らしていて、ハレの体はここにあるのに、ハレは確かにここに存在しているのに、でも、もうどこにもいないんだって思った。
 そう思った瞬間、涙が、まるでこの時を待ってずっと溜め込んでいたみたいに、わっと一気にあふれ出た。硬い、だんだん冷たくなっていくハレをぎゅって抱っこして、赤ちゃんみたいに大きな声で泣きました。
 涙がいっぱい出ました。こんなにたくさんの涙、どこにしまわれていたんだろうっていうくらい、いっぱい出てきた。止まらなかった。抱っこしているハレは間違いなくハレなのに、小さい頃私が拾ってきたハレなのに、もうにゃあにゃあ鳴いたり、お風呂を嫌がって大暴れしたりしないんだって思った。冷たい硬いお人形みたいになってしまった。
 ハレが、ハレが死んじゃった。
 どうしよう。ハレが死んじゃった。
 死んじゃった。どうしよう、有栖川、どうしよう。ハレが死んじゃったよ。
 もう生きていない。
 どれだけ泣いても、涙が終わりません。
 それでも、しばらくしたら、やっと、ふうと息ができました。それでパジャマのまま、ハレを抱っこして家に帰って、(はるか)永久(とわ)とお父さんとお母さんで、みんなで泣いて、庭にある金木犀(きんもくせい)の下に埋めました。
 お願いがあるんだけど、聞いてくれますか?
 古くなってはがれかけていたハレの爪を、今、ひとかけら持っています。これを、有栖川の家の、門扉のすぐ下に埋めてもいいですか?
 ハレは有栖川のことが大好きだったから。いっつも門扉の柱(っていえばいいのかな)の上に伏せて日向ぼっこをしていたから。ほんとうにわがままで子どもっぽい主張かも、とも思うんだけど、何より、私がハレに近くにいてほしいから。小さな小さなかけらだから、どうか許してください。
 有栖川、『死』ってなんだと思いますか?
 私は、有栖川のおじいさんが亡くなってから、ずっと死や死ぬことについて考えているけれど、未だによくわかりません。死って、死ぬって、どういうことなんだろう。死んだらどうなるんだろう。
 かたちはなくなるよね。火葬にしろ土葬にしろ風葬にしろ、かたちはなくなっていく。時間が体を解かして、『自然』っていう大きなものの一部になる。動物に食い荒されたり、腐ったり、乾いたりして、なくなっていく。
 文章や言葉にすると、それらはすごく醜くてひどいことみたいだけれど、私はそんなことないと思う。『土に還す』っていう言葉があるみたいに。人間でも、人間じゃなくても、腐って土になって微生物や植物の養分になって、それが草食動物を生かし、肉食動物を生かすという循環の中に自分が組み込まれるのは、コンクリートに囲まれたお墓に入れられて崩れていくよりもずっと、『生き物』として存在していることになるような気がするの。(だからといって、お墓がだめだと思っているわけではありません。生きているひとにとって、そのひとを愛しているひとにとって、それはきっと支えになる)
 でも、この気持ちはなんなんだろう。
 『生き物はみんないつか死んでしまう』ということ、そんなこと知っています。当たり前のことだと知っています。自然の摂理の一部、誰にも何ものにも止められない、いつかは確実に訪れるものだと、そんなこと知っています。
 でも、哀しいです。涙がいっぱい出ます。
 ハレが死んでしまったことも、おじいさんが死んでしまったことも、『いつかは訪れる必然』だったこともわかります。
 知っているのに、すごく哀しい。心がとても痛い。寂しい。もっと(そば)にいてほしい。ずっと死なないでほしいと思う。
 死ぬということは、悪ではないし、善でもないと思う。正誤の問題でもないと思う。頭ではわかってる。理解しているし、納得しています。
 なのに、死なないで、傍にいて、いなくならないで、かえってきて、と思って、涙がいっぱい出て、痛くて、つらくて、寂しくて、どうしようもない気持ちはどうしたらいいんだろう。どこに持っていけばいいんだろう。
 死んでしまったひとの精神はどこへ行くのかな。体はさっきも書いたとおり、時間が経てばなくなっていくけど、そもそも生きている頃から肉眼で確認出来ない『精神』、『心』はどうなるんだろう。
 無宗教の私は、天国も極楽浄土も地獄もよくわからない。信心深いひとは、きっと「死んだら天国に」とか「地獄に」とか考えられるのかもしれないけれど、無信心、無宗教の私はどうやって考えたらいんだろう。本当に天国や地獄はあるのかな? あるとしたら、無宗教のひとはどこへ行けばいいんだろう。
 『心』は、死んだらどうなってしまうんだろう。
 そういうことを考えていたら、急に不安になりました。自分の立っている場所がわからないような、これから何を目的にどこへ行ったらいいのかわからないような気持ちになりました。
 私はまだ、「死ぬのが怖い」とは思いません。もしかしたら、あと五秒後に巨大隕石が地球にぶつかって、地球ごとすべての歴史が消えさってしまうかもしれないとか、晩ごはんのおかずを買いに行った帰り道、車にひかれて死んでしまうかもしれないとか、そういう空想はするけど、だからといって『死』が怖いとは思わない。私にとって、『死』とはその程度のものです。
 いつ死ぬかわからない、もしかしたら五秒後かも、五分後かも、明日かも。だから毎日を一所懸命に生きましょう、いつ死んでも後悔しないように。
 (ちまた)にはそういう言葉が結構あるようです。私も、幼稚園のうさぎ組のときと、小学校三年生と五年生のときに、全校集会やなんかでそういうことを言われた記憶があります。
 でも、どんなにそういうせりふを言っても、多分それを信じている――信じているっていう言い方は語弊(ごへい)があるけれど――そう、次の瞬間に死ぬかもしれないと考え、常に緊張し、『今ある生、今、生きているということ』を念頭に置いて生きているひとは少ないと思います。
 不治の病と闘っているひとやそのご家族とか、戦争中の国のひとなどは除いて。
 「星にも寿命がある。だから地球もやがて死ぬ」イコール「(当然自分も含む)ヒトも滅亡する」などと言うひとびとですら、それは近くて遠い未来だと思っているんじゃないかなと思います。
 死に直面しているとはっきり自覚せずに、私は生きているのだと強く主張するのは難しいことなのかもしれない、と思いました。
 考えれば考えるほど、私は『死』や『死ぬこと』がわからなくなっていきます。
 体が老いさらばえていくのが怖いんじゃないの。
 事故に遭うかもしれない、通り魔に刺されて死ぬかもしれない。そういう、体が壊れてしまうことが、止まってしまうことが怖いんじゃないの。
 『心』がどうなってしまうのかがわからないのが、とても怖いです。
 精神って、心ってなんなんだろう。目に見ることはできないのに、確かに在って、ひとりひとつずつ違って、触れないし重さも感じないし、自分でも完全に制御することが叶わないもの。
 体が死んでしまったら、入れ物がなくなってしまったら、心はどこへ行ってしまうの?
 ひとりで考えていて、とても、とても怖くなりました。そして、有栖川を思い出しました。
 もしかして、有栖川はずっとこんな気持ちを持っていたの?
 ずっとひとりでこういうことを考えながらおじいさんと暮らして、おじいさんの死に立ち会って、今でもずっと考えているの?
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