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新世界より




「暑い暑い日、まだ春なのに。厚い厚い本、まだ一ページも読んでない。熱い熱いスープ、まだ食べるには早いみたい。今唇をつけたなら、きっと火傷(やけど)をしてしまう。(あつ)い篤いこの想い、神様、私を愛してる?」
 自分で言うのもなんだけれど、私に作詞の才能はないらしい。
 庭の花や木に水をやりながら、私はふうと息をついて空を見上げた。被った麦藁帽子(むぎわらぼうし)が少しずれる。
 もうすぐお盆だ。
 縁側には、赤い朝顔がいっぱいに咲いている。朝顔が巻きついているのは、私の手作りの、洋風でいうところのトレリスだ。もう卒業してしまった高校の裏は、すぐ山。というよりも、山の(ふもと)に学校がある、といった方が絶対正しい。だって、先にそこにいたのは山なのだから。
 誕生日に有栖川(ありすがわ)から朝顔の種をプレゼントしてもらった私は、入梅する少し前にその山へ行き、麓に広がっている竹林から細い竹を数本拝借してきた。そのときは何とも思わなかったのだけれど、あれはもしかして窃盗罪とかに入ったりする行為だったのだろうか。誰のものでもない土地はない筈だから、うん、やっぱりあれは花泥棒ならぬ竹泥棒してしまったことになるのだろう。もしかしたら、不法侵入なんていう付録もつくかもしれない。嬉しくない。困る。
 ただ、竹林になっているそこの持ち主が誰なのかを知っているひとは、私が知っている範囲ではひとりもいない。古参の先生ですら知らないらしい。だから許されるというわけではないけれど、体育祭や文化祭のとき、誰も何の疑問も持たず、そこの林から当たり前のように竹を二、三本()って持ってきていた。だから私もその感覚で、特に罪悪感もなく、折れて倒れ、乾いて使い古した(たたみ)みたいな色になっている細い竹を五本ほど拾ってきた。そしてその竹を交差させて麻紐で縛り、障子の骨みたいにして縁側に立てかけた。大きくなったとき、絡まるところを探さなければいけないという朝顔の手間を省けるように。
 大事に大事に育てた。
 濡れた土の中からそっと、小さな小さな若い緑色と、瑞々(みずみず)しい白い細い茎――この時点ではまだ茎とは言わないかもしれない――が出てきたときは、とても嬉しかった。何色のお花かしら、赤だったら私の大好きな朝顔だ、とわくわくしながら毎日水をやり、勿論そんな数分で変化が現れることはないとわかっていながら、それでもじっと見つめたりしていた。
 夏、朝顔は立派に咲いた。赤色だった。赤と白のしましまの(つぼみ)を見つけた瞬間、有栖川からのバースデイ・プレゼントが、世界にたったひとつだけというような、ものすごく貴重なもののように思えて、感激した。
 朝顔は無数にあるけれど、赤い朝顔だって珍しくもないけれど、それでもこの朝顔は世界にひとつだけ。
 早朝の清浄な陽光に、花びらや葉に結ばれている露をきらめかせている赤い朝顔はとても堂々として、自分の生を誇り高く示しているようだった。
 感動した。
 すごい、生きてる、(しゃべ)らなくても歩かなくても、意志の疎通が眩暈(めまい)がするほど困難でも、この子は、この朝顔は生きている。私と同様、生きている、と思った。
 花が終わると、種がいっぱいとれた。
 私は集めた種を大切に大切に包装紙で包んでしまっておいた。それを毎年繰り返した。そして今年も種を植えた。
 朝顔は元気にすくすく育っていった。芽を出し、葉を出しながら大きくなり、するすると(つる)が伸びると竹に絡まり、さらに蔓を伸ばしていく。葉が生い茂って、朝顔側から見ると、竹は存在すら確認できないほどだった。
「今年も咲いた、きれいーな朝顔〜」
 私は適当に節をつけて歌いながら、朝顔の周りの植物たちにもホースで水をやっていく。
「虹ー」
 ホースの口を指で押さえ、上向きに勢いよく水が出るように仕向ける。冷たい水はきらきらと透明に、所々銀色に輝きながら、私の手元から弧を描いてうっすらと小さな虹を作った。
 塀の上を、黒い縞模様(しまもよう)の大きな猫が歩いていく。
(へい)さんおはよう。今日はどこ行くの?」
 私が声をかけると、塀十郎(へいじゅうろう)という名前の和菓子屋さんの猫は、ふん、というふうに尻尾を振った。珍しい。いつもは挨拶しても無視されるのに。今日はご機嫌がいいらしかった。尻尾のお愛想の返事だけでなく、こちらを向いて、大きな身体にぴったりの低い声で、にゃあ、と鳴いた。
「いってらっしゃい」
 塀十郎は既に私に背中――というよりもお尻――を向けてすたすた歩いていってしまっていた。
 私は水が流れ出るホースを持ったまま、塀十郎を見送る。くちもとや鼻の頭に汗が溜まる。今日も暑くなりそうだった。まだ涼しいうちに、アイスでも買ってこようかな。
 私はポケットからハンカチを()()り出すと、無造作に鼻とくちもとの汗を拭う。アイスより先に、お風呂で汗を流そうかな。それとも、浴槽に水を溜めて、ちょっとプール気分を味わってみようかしら。
 ふう、と再び息をつき、水を止めて、ホースをぐるぐる巻いて所定の位置にきちんとしまう。縁側に腰掛ける。まだ朝は早くて、日中生温かくなってしまう縁側の床板もまだ冷たい。
 私はサンダルを脱ぎ飛ばした。サンダルはひゅうんとさっきの虹のように弧を描き、ぱたりと土の上に落ちた。ちゃんと靴底が土についている。
「おはようございます、彼方(かなた)のお元気予報です。今日も一日暑くて、アイスがとてもおいしいでしょう。プールに行くと運命の出会いが待っているかも」
 適当に言って、もう片方のサンダルもぽいと脱ぎ飛ばした。ぱたりと落ちる。結果は同じ。
「今日は今年一番の真夏日になりそう。アイスがとてもおいしいでしょう。かき氷もお勧めです。ちなみに私は今も昔も変わらず人気ナンバー・ワンのいちご味が好きです。でも、暑いからといって食べすぎには充分ご注意。おなかが冷えると大変です。特に女性はご用心」
 もうすぐお盆だ。
 そう思うと、どきどきしてくる。
 大学一年目は、有栖川は一応、帰ってくるには帰ってきた。けれど、おじいさんのお参りをすると、一泊もせずに東京に帰ってしまった。やらなければいけないことが(あふ)れてるんだ、と笑った。その笑顔がとても綺麗だったから、私も引き止めなかった。
 それからもずっとそんな調子で、有栖川とはあまり会っていない。ごく(まれ)に私が彼を訪ねる程度だ。でも、それだけで充分だった。
 有栖川は、本当に楽しいのだ。充実している。身体の隅々まで、ちゃんと生に満たされている。
 やることが多くて、レポートも幾つも提出しなきゃならないし、忙しいよ。
 忙しいと言う有栖川は嬉しそうで、そんな彼を見るたび、私はまるで自分が有栖川になったみたいに嬉しくなる。無理しないようにがんばってね、と言って、有栖川と別れる。
 有栖川が「泊まりはしないけど、一年に一回くらいはじいさんに挨拶と近況報告したいし、彼方にも会いたいから、一応帰るよ」と電話してきたとき、ひょっこりと顔を出した有栖川があまりにも有栖川そのものだったとき、庭の朝顔を褒めてくれたとき、駅まで送っていく道すがら話したお互いの身の周りで起こった小さな事件や変化を報告し合っているとき――そんなとき、とても嬉しいのに、抱きつきたいくらい彼を愛おしく思っているのに、それらをどうやって表現したらいいのかわからず悶々(もんもん)とする自分を思い出して、ちょっと可笑(おか)しくなった。
 ――今年もやっぱり悶々とするのかな。
 思うとなんだかくすぐったい気持ちになる。くすぐったいから笑ってしまう。
 有栖川は、年賀状は勿論のこと、暑中お見舞い、残暑お見舞い、寒中お見舞い、とにかく季節ごと何かの節目には几帳面(きちょうめん)に葉書を出してくれた。その季節を美しく、或いは可愛らしく表現してあるポストカードで、私宛で一枚、一奈(たかな)家宛に一枚、別々に送ってくれた。母は「有珠(ありす)くんらしいね」と言って笑った。私は、――私宛に、と家族とは別々に送ってくれているのが、なんだか、あなただけは特別です、と真正面から言われているみたいで少し気恥ずかしかった。
 ポストカードは、本来は写真を貼って使うだろうアルバム――小さめのそれを買ってきて、その中に届いた順番に収め、居間の電話の横に置いてある。いちばん目立って、いちばん取り出しやすいところだ。
 有栖川に会いたくなったとき、私はそのポストカードを見て、そこに書いてある有栖川の字を目で追い、指先で触れて確かめ、心を落ち着かせた。
 縁側に足を投げ出してぶらぶらさせたまま、私はうーんと伸びをしながら後ろに身体を倒した。後頭部が畳に当たり、どん、と独特の音がする。寝転がったまま首を回して、壁に吊り下げてあるカレンダーを見た。
 もうすぐ、お盆だ。
 有栖川からの電話はいつくるだろう。
 小さな子どもがサンタクロースを()()びるような気持ちで、私はカレンダーの日付を目で追っていく。
 今日かしら、明日かな、明後日かも。
 待つ、というのは簡単なようだけれど、本当は少し難しい。自分ではどうしようもできないからだ。
 私が有栖川に電話するのは勿論可能なのだけれど、それはなんだか気が引けた。いつ帰ってくるの? なんて、まるで有栖川に早く帰ってこいと催促しているみたいだ。それは嫌だった。有栖川が有栖川の都合のいい日を見つけて、或いは作って、そしてこちらへ来てほしかった。私という存在を、有栖川の(かせ)にしたくなかった。
「うーん。アイスでも買いに行こうかなあ」
 ごろごろっと寝返りを打つ。
 お盆が近づくと、どんな体勢でいても、どんなことを考えていても、私の全神経は知らず知らずのうちに有栖川へと向かう。
「だめだ!」
 強い調子で言って、がばっと身体を起こした。
 人間って、こんなにひとつのことに集中することができるのか、気を()らせようとしても自然にひとつのことに集中していってしまうことがあるものなんだと、毎年妙に感心する。
 私は今、全身で有栖川のことだけを考えている。
 ――熱愛中の恋人同士みたい。
 私は熱愛したこともなければ恋人がいたこともないので、それらが本当はどんな気持ちのするものなのかわからないけれど、もしかしたら今の私みたいになるのだろうか。そうしたら、少し怖いことのようにも思えてきた。
 いつも、どの瞬間も相手を想い続けて、いつも相手のことしか考えられないなんて、怖い。
 誰だって、何ものとも関わらずに生きていくことはできない。望むと望まざるとに関係なく、誰もが、生まれ落ちてから死ぬまで――お葬式などを考慮に入れると死んでからもしばらくは――誰かと関わる。近いか遠いかの違いがあるだけで、きっと(おびただ)しいほどの人数と関わっている。その中でひとりのことしか考えられない状態になるなんて、怖い。もしも世界に私と有栖川しかいなくなったら、私は間違いなく困る。有栖川もきっと困る。お互い以外誰もいないという状況、その状態が生命維持に関わっていることを差し引いても、困る。
 私は有栖川を好きだ。
 大好きだ。
 自信を持って言える。
 私は有栖川を大好きだ。愛していると言って、まったく差し支えない。
 けれど、有栖川が私のすべてなわけでは決してない。
 有栖川も恐らくは私と同様だろう。彼は私をとても愛して大切にしてくれているけれど、彼の世界が私だけで構成されているかといえば、きっと違う。
 好きだ、愛しているという気持ちは、どんな状況下でもonly youと結びつくとは限らない。むしろ、限らなくていいと私は思う。
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